阿寒摩周国立公園の西の端、足寄町に跨る「雌阿寒岳」は、日本百名山にも選ばれる名峰だ。
足寄側から見ると2つの山に見え、俗に左側を「雌阿寒岳」。右側の山を「阿寒富士」と呼んでいるが、実は「雌阿寒岳」と言うのは、「阿寒富士」も含むいくつかの山が集まった複式火山の総称で、本来なら「雌阿寒岳」の中で、足寄側から見えている左側が「ポンマチネシリ」、右側が「阿寒富士」というのが正しい。とちょっと博識ぶってみたが、人間、知らなかった事を知るとひけらかしたくなるのが人情だ・・・。
ともあれここでは分かりやすく一般的な「雌阿寒岳」「阿寒富士」で呼ばせてもらう事にするとしよう。
そんな名峰「雌阿寒岳」は活火山だ。有り余るマグマを燃え滾らせいつもその白い息を空へと吐き出している。もくもく、もくもくと。
※
「雌阿寒岳」の火山活動は、オンネトー地区にたくさんの資源をもたらせている。その代表が温泉だ。
「雌阿寒岳」の麓には大正2年、1913年に野中増次郎(のなかますじろう)が開湯した「雌阿寒温泉」が109年を経た今もこんこんと湯を湧かせ、秘湯として訪れるものを癒し続けている。
足寄町の上利別に住んでいた増次郎は、アイヌの住民から「羆や鹿が傷を癒していた湯がある」と伝え聞き、未開の山奥に分け入って温泉を確認すると、大正8年、1919年に「野中温泉」を開業した。(※1)
「野中」の名前は、「雌阿寒温泉」の歴史そのものである。だからここは皆に「雌阿寒温泉」よりも「野中温泉」と呼ばれているのだ。
現在の「山の宿 野中温泉」を切り盛りするのは初代の増次郎さんから数えて4代目の「野中祐子(のなかゆうこ)」。祐子は雌阿寒岳のように胸にマグマを滾らせる活火山のような女性だ。そのマグマはごく稀に行き場を失い噴火(!?)するが、彼女のマグマの正体は、雌阿寒岳やオンネトー、原始の森に温泉、そしてもちろん「野中」を「守るという事」「知るという事」「伝えるという事」だ。祐子はここで生まれ、育ち、生きてきた。だからここに対する「想い=マグマ」を持つ事は然も当然の事なのだと思う。
※
※
「野中温泉」の女将、野中祐子と自分は足寄高校の同級生だ。入学してすぐの宿泊研修は今の野中温泉の隣にあった野中ユースホステルだったからきっと祐子は非日常感はゼロだったろう。快活な彼女とは知らぬ間に言葉を交わすようになっていた。高校を出た祐子は、札幌の専門学校に入学し、卒業後はそのままOLとなって札幌で暮らしていたが27歳の時に家業を手伝うべくオンネトーに戻った。その理由を問うと祐子は、「取り合えず、よっちゃんをお嫁に行かせようと思って」と答えた。「よっちゃん」とは3歳上の姉「好江」さんの事だ。当時、野中温泉を手伝っていたのは「よっちゃん」だった。祐子はその姉を嫁がせようと帰ってきたと言うが自身だってその時、既に20代後半、自分の結婚は考えなかったのだろうか?そう心の中で思ったものの、あえて触れないのが友情だ。しかし次の瞬間「私だってその頃は嫁に行けると思ってたの!」さすが100年以上の歴史を持つ温泉旅館の女将だ。察しがいい。
※
祐子が戻った実家「野中温泉」には、2代目の祖父「正造(まさぞう)」と父である3代目の「信郎(のぶお)」がいた。正造さんは、平成31年に113歳で大往生したが、当時男性の世界最高齢者として有名だったのでご存じの方も多いだろう。正造さんの父・増次郎さんが開湯・開業した「野中温泉」ではあったが、当時はおよそ16キロ離れた上足寄地区までしか道路らしい道路はなく、来る客も近くの農家やその親戚などごくわずかで、とても旅館業だけでは食べてはいけなかった。それを下支えしたのが長男だった正造さんで、正造さんは旅館の仕事ではなく農業で野中の家を支えたという。そんな気骨の人だから、祐子は亡くなるまで祖父の持つ威厳に対し畏怖を感じていたそうだ。そしてもう一人、祐子が怖かったのが父。人里離れた雌阿寒岳の麓では大概の事を自身で解決するスキルを持っていないと生きてはいけない。信郎さんはきちんと計画をたて、準備を怠らず、なんでも自分で作ったり、修繕したりする人だった。今も野中温泉で人気の露天風呂も彼が一から手作りしたものだ。無骨だが決して貧相ではないこの風呂に信郎さんの人となりを窺い知る事が出来る。そんな父を祐子は尊敬していた。
※
※
※
祐子が畏敬した父が病魔に侵されこの世を去ったのは2003年の事だった。信郎さんは病床で娘にこう伝えた。「自分がいなくなったら旅館の改修などせずにお金を貯め、そのあとは自分の事を考えろ。」
そう言い残し、父は逝った。何事にも準備万端進める信郎さんは自身がいなくなった後の事も万事考えていた。そしてその結論は娘に野中温泉を背負わせる事ではなかった。
信郎さんの亡骸をオンネトーに連れて帰ると、息子の帰りを待ちわびていた正造さんはその場で泣き崩れたそうだ。祐子はおっかなかったじいちゃんのその姿を見て「あぁ私がこの人を守らないといけないんだ。」そう思ったという。それから16年後、祐子はそのじいちゃんも見送り、今も2人が愛したオンネトーで野中温泉を守っている。父の遺言には背いた。「だって、嫁に行けなかったんだもん。」彼女はそんな風に軽口を叩き、笑ってみせた。
※
父を亡くし本格的に旅館の経営に取り組むようになった祐子は、こんな事を思うようになる。
「雌阿寒岳の事」「オンネトーの事」「オンネトーの森の事」「温泉の事」。ここで生まれ育ち、ここで生きてきたにも関わらず、それらの自然の財産の事を自分は何も知らない。だから知らなければいけない。
いや知りたいのだ。そう考えた祐子は、2009年に専門家の講師を招き「火山塾」を開催。それが現在も続く「めあかん自然塾」の始まりだった。
自ら塾長を務めながら彼女自身もオンネトー地区の素晴らしい自然やその仕組みを学び、体感した。
これまで「火山塾」に加えて、「オンネトー・スノトレ塾」「雌阿寒岳冬山塾」「オンネトー観察塾」「星空塾」に「温泉塾」「遊歩塾」「野鳥塾」など1年に幾度かワークショップを開催し、活火山を持つ足寄の、オンネトーのポテンシャルを町民を初め、道内外の人々に知ってもらった。祐子は「足寄の子供たちにももっとオンネトーの事や雌阿寒岳の事を知ってほしいし、知らせたい。活火山ってほんとに面白いのよ」そう話すと「めあかん自然塾」について「若い人に継いでいってほしい」ポツリとそう言った。
「守るという事」「知るという事」「伝えるという事」これが野中祐子の秘める「想い=マグマ」のすべてだ。
※
※
※
※
※
野中温泉の湯は、硫黄と微かなアブラのような匂いが、いかにも「活火山から湧きたてほやほやです!」と宣言しているような強烈な湯だ。多くの温泉マニアがここのファンなのも頷ける。
湯屋はオンネトーを代表するアカエゾマツとトドマツ造り。釘は一本も使っていない。洗い場などはなく、マツを使った湯舟が一つ。お湯同様に硬派な風呂だ。もちろん源泉かけ流し。
外に出ると雌阿寒岳の山裾に3代目が仕上げた無骨な露天風呂が鎮座する。湯に浸かると思わず「ウゥゥゥーッ」と約束通りに声が出た。周りはアカエゾマツなどの原始の森。アイヌの住人が遥か彼方から
見てきた悠久の森だ。ここに来るとさまざまなエネルギーをもらえるようだ。
「山の宿 野中温泉」には女将の祐子の他に姉のよっちゃんも自宅のある幕別から手伝いにやってくる。
そのほかには女性スタッフ数名と、そうそう自称「支配人」の役場OBも!
更にはこの旅館のアイドル達、猫が数匹とゴールデンレトリィバーが我々を出迎えてくれる。
祐子に「楽しいことは?」と聞くと、喰い気味で「ない!」と、にべもない答えが返ってきた。しかしその後に「OLやってたら知り合えないような方たちと出会い、お話しできる事かなぁ。」と続いた。
野中温泉には小説家や大学教授を初め、有名、無名に関わらず個性的な面々が訪れ、色々な話しを聞けるそうだ。続いて祐子に「夢は?」と聞くと、また秒で「ない!」という答えが返ってきた。でもまあそう答えるのはこちらも織り込み済みの事。「今後についてとかでもいいよ」ともう一押しすると「私がここを辞める時には、森も、温泉も、手つかずのまま、このままのものをお返しする。それが夢かなぁ。」とそう話してくれた。自分も足寄にUターンして毎週のようにオンネトーに通ううちに本当に素晴らしい場所だと認識を改めた。折角、町に活火山があって、美しい湖と森があって、温泉があるのだから、まずは「知る」ことにしようと思う。あなたも一緒にオンネトーに行かないかい?「手つかずの自然」と、「手つかずの祐子」に会いに・・・・・・。おっと!こんな事を書くとまた彼女のマグマが噴火する。
※
※
野中温泉の露天風呂の横に、一編の詩が刻まれた石碑がひっそりと建っている。
オンネトーに硫黄鉱山があった1950年代中頃、鉱山職員としてこの地に赴いた詩人「牧章造(まきしょうぞう)」の詩だ。奇しくも祐子が生まれた1965年に発表された詩集「虻の手帳」の中の「原始林を歩いていく」から抜粋された一文だ。
「ぼくは着物を脱ぎ棄ててよい。ぼくは原始林の雫に近ずいていく。出来るなら、あの大きなトド松のてっぺんにとまっている鷹みたいに、悠々と風にそよいでいたいものだ。」(※2)
「山の宿 野中温泉」 北海道足寄郡足寄町茂足寄159 (0156)29-7321
日帰り入浴 10:00~18:00(露天風呂 11:00~)料金 大人400円 子供 200円(2021年現在)
宿泊予約、お問い合わせはお電話又は宿泊サイト(じゃらん、楽天)から。
※1 野中温泉開業については諸説あるが、ここは「足寄百年史」より引用
※2 「牧章造詩集 虻の手帳」(黄土社)より引用
※写真 野中温泉提供