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足寄物語~Ashoro Stories その21「足寄町和牛生産改良組合」

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2022年10月、足寄の、いや十勝の和牛畜産関係者が歓喜する快挙が起きた。

鹿児島県で開催された「和牛のオリンピック」「第12回全国和牛能力共進会」において、「第4区(繁殖雌牛群)」に出品された北海道代表「十勝和牛振興協議会」の牛が全国3位にあたる優等賞3席を獲得したのだ。十勝勢として過去最高の評価だった。

この「第4区(繁殖雌牛群)」というカテゴリーは、地域で3代以上生産されてきた特色のある雌牛を3頭1組にして審査するもので、今回は、池田町と幕別町から1頭ずつ。そしてもう1頭が足寄町の牛「みさき352の5」。中足寄の「大原農場」が育成した牛だった。

 

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過去にこのコラムで、足寄町は「酪農の町」とか「林業の町」という表現をしたが、それと並んで「畜産の町」でもある。雪が解け、牧場に青々と牧草が茂ると、黒毛和牛が放牧されている風景をよく目にする。足寄の畜産の歴史を紐解くと一番古い記録は、足寄に入植した第1号の「細川繁太郎」が、明治30年に牛10頭を飼育していたとされている。現在主流の黒毛和牛は、国の開拓行政の一環として導入されたもので、昭和25年に白糸地区に5頭導入

されたのが最初のようだ。そして翌26年、27年に鳥取県と島根県からそれぞれ30頭前後が導入され、これが足寄の和牛飼養の礎となっている。

また北海道で一番最初に黒毛和牛が入ったのも足寄町だった。

 

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5年に1回行われる「全国和牛能力共進会」、ここで3位以内に入るという事は至難の技だそうだ。

大会は、生体のまま体形や品位など和牛改良の成果を審査する「種牛の部」と、と畜して肉質や肉量を評価する「肉牛の部」と2つに大別され、

それぞれの部に更に細かい区分がある。今回優等賞3席となったのは、「種牛の部」の「第4区分(繁殖雌牛群)」というカテゴリーだ。

足寄の畜産は、牛を肥育するのではなく、その素となる牛を繁殖し、生後10か月前後で肥育農家に販売するという形態が主流で、当然良い母牛となる

牛を育てなければならない。それは、個々の農家の努力もさる事ながら、地域で良い牛を生産するという結集力が必要なのだという。そんな力を集めるため1983年(昭和58年)に設立されたのが、「足寄町和牛生産改良組合」だ。この組合は、1972年(昭和47年)に発足した「足寄町和牛振興会」を前身とし、1985年(昭和60年)4月に「全国和牛登録協会」にも認定された。組合設立10周年に発刊された記念誌「あしょろ和牛」の表紙を開くと「高村光太郎」の「牛」という詩と共に組合のスローガンが記されている。「一に血統 二に愛情 三に人の和で牛づくり」

 

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「いやぁ。You Tubeで全国大会見てて、3席に入った時は飛び上がったよぉ。」相好を崩してそう話してくれたのは、足寄の芽登で和牛を生産する

「堀牧場」の先代で「足寄町和牛生産改良組合」の組合長や「十勝肉用牛振興協議会」の会長などを歴任した「堀 昇(ほりのぼる)」だ。

堀の家は、父の「利次(としじ)」さんが、戦後開拓で足寄の茂喜登牛に入植。原始林を開拓し、畑作を試みたが、度重なる冷害や土地自体が畑作に

向かなかった事。また水や電気はおろか、道路も通っていなかったため酪農も無理という事で、国の意向もあり、畜産農家として黒毛和牛の飼養を始めた。芽登小中学校を卒業した堀は、農業実習に出て酪農などを学ぶと20歳過ぎに実家に戻り、畜産と共に酪農をスタート。そして1989年(平成元年)、黒毛和牛の繁殖一本に絞った。現在は、経営を息子の「智幸(ともゆき)」さんに譲るが、牛の飼育の仕事からは引退していない。親子で380頭程の親牛や子牛を毎日慈しみ育てている。

 

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「オレらはさ、ジーッと見てて、息子らに最低限のハッパをかけるぐらいだ。でも親父のハッパは息子には効かないんだよなぁ。」と冗談交じりで堀は言った。その顔は歯痒ような、寂しいようなそんな表情だった。息子が父の助言を煙たく思うのは世の常だ。かく言う堀自身もそうだったのだから。「足寄町和牛生産改良組合」の前身「足寄町和牛振興会」を結成したのは、堀の父「利次」さんやその世代の人達だった。

「20代の我々にしたら『一体なにをやってんのかなぁ。』って。だから上の世代に抵抗してさ。若い仲間で『和牛研究会』を立ち上げて勉強したんだよ。」1982年(昭和57年)の事だった。この「和牛研究会」は「和牛生産改良組合」の若手が切磋琢磨する部会として今も残っている。

こうして集った若手メンバーは、振興会のままでは、「全国和牛能力共進会」にエントリーも出来ないことから「和牛生産改良組合」の設立を訴え、

翌83年(昭和58年)に組合を立ち上げた。併せて「全国和牛登録協会」へ登録を申請し、2年後の1985年(昭和60年)、晴れて認定組合となり、同時に堀は組合長に就任した。

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和牛生産改良組合は、和牛の改良方針の決定や、担い手育成、視察などを主なミッションとし、足寄の肉牛の評価向上を目指す。

組合長となった堀は、足寄の肉牛のレベルを上げるため、仲間と共に奮闘し、その情熱と努力が高い評価を受けた。組合設立から9年後の1992年(平成4年)堀は、「第31回農林水産祭」において7部門あるうちの「畜産部門」で最高賞である天皇杯を受賞する。

「なんも当時の開拓農協でエンピツなめて、ちゃちゃっと書いたもの発表しただけだ。全国大会だって、あんまり東京行った事ないから遊び半分で行ったんだもの。そしたら天皇杯だって。こっちがびっくりしたよ。」当の本人は照れ隠しでそう言うが、個人の努力はもちろん、地域の畜産農家や、共に親世代に反抗して結成した「和牛研究会」立ち上げ世代の仲間たちと共に勝ち取った栄誉だった。

 

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「大原くんのところは、肉牛始めてからまだそんなに経ってないんだけど、そういう人の方が熱心なんだ。本当に立派だよ。」「大原くん」とは、全国3位となった「みさき352の5」を擁する「大原農場」の農場主「大原裕樹(おおはらひろき)」の事だ。堀は息子世代の大原を「すごく勉強したと思うよ。大したもんだ。」とべた褒めした。大原は、1982年生まれ、今年で41歳になる。大原家が農業を始めたのは大原の父「彰(あきら)」さんの代で、大原は農家としては2代目に当たる。ちなみに中足寄に住み着いた祖父は樹木や盆栽などを育成し販売する仕事をしていたそうだ。そんな大原家の長男として生まれた彼は、本別高校を卒業すると、深川市にある短大の農学部に進学し、卒業すると今度は本別町の「北海道立農業大学校」に進んだ。

農業を学問として学んだ大原は卒業後、実家の農場を継ぐ。当時は畑作の専業農家であったが、隣の農家の後継者が早逝し、残された肉牛を引き取ってくれないかという依頼に父が乗り、大原は和牛繁殖の世界に足を踏み入れる。2007年の事だった。肉牛飼養の経験がない大原は父と共に、肉牛を譲り受けた農家やJAあしょろの担当職員に手ほどきを受け、持ち合わせた向上心も相まって肉牛繁殖や飼養にハマっていく。「そうやって人に恵まれたお陰様で割と早い段階で迷惑かけないで繁殖経営が出来るようになりました。」と大原は謙遜気味に話してくれたが、肉牛について熱心に研究したのだろう。そうでなければわずか15年足らずで全国大会で3位以内に入る牛は育てられないはずだ。

 

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左から渡辺町長、大原氏、JAあしょろ大塚畜産課長21-14

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さて、共進会では牛のどんなところを審査するのだろうか?まず共進会にエントリーするに当たっては区分毎に出品条件がある。更にエントリー後は

定められた審査基準の中で審査をされるのだが、大原曰く、まず最初にクリアしなければいけない関門が「体高」だそうだ。今大会で大原がエントリーした「第4区(繫殖雌牛群)」は、体高規定が「135.4センチメートル」で、ここに収まる範囲でこの基準に近い方が良い。つまり135.4センチを超えるとアウトなのだ。その他にも「体長」「尻長」「座骨幅」「栄養度」などの項目で審査されるが、第4区は3頭1組なので、牛と牛にバラつきがあるのもマイナスとなる。こういった基準を満たすために調教やトレーニングを行うのだが、今回は共進会出発の1か月前に、かなり強度の高いトレーニングを課したそうだ。トレーニングは基本的に「牛追い」。大原農場の、急こう配の放牧地を歩かせ、後ろから追うのだという。こうしたトレーニングには、「JAあしょろ」「十勝農業改良普及センター」の職員や、「和牛生産改良組合」の若手らも参加し、まさしくチームプレーで目標に向かった。

そう言えば、堀に話しを聞いた際、こんな例えをしてくれた。「和牛の改良・生産は、野球チームみたいなもので、年俸の高いやつもいれば、低い選手もいる。そういう差があっても協力してチームを勝たせないといけない。個人プレーしたってたかが知れてるんだよ。肉牛も同じ。結集しないと勝てない。皆、同じ方向を見て高め合っていかないと。」脈々と流れる「足寄町和牛生産改良組合」のイズムは、足寄の黒毛和牛繁殖技術のレベルを上げていった。その証拠に「全国和牛能力共進会」の「雌牛繁殖群」部門において、第8回大会で平和の「谷 忠元」の「とよかね7」が「優等賞9席」、第10回大会は稲牛の「岡元義春」の「ゆり」と、茂喜登牛の「伊藤 力」の「ゆりか」が「優等賞6席」、第11回大会は平和の「清水和博」の「みかん」が「優等賞5席」と毎回のように牛を送り込み、都度順位を上げていった。そして今回、大原が「優等賞3席」。「足寄町和牛生産改良組合」は、取り組んできた活動が間違っていない事を証明した。

 

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実は今大会前、北海道代表で3位を狙えるとしたら一番近いのが大原らの「第4区」だと期待されていた。そんなプレッシャーがあったからか「優等賞3席」に入った瞬間、大原は「やった!」と言うよりも「ホッとした。」という。そして十勝初の快挙にも浮かれずこうも話してくれた。

「やはり、鹿児島や宮崎の牛はレベルが違った。3席って言ってますけど、1席、2席の牛を間近で見させてもらって、まだまだ差があるなぁと痛感しました。」そして自身にも言い聞かせるように「まだまだ。まだまだですよ。」そう繰り返した。一方、堀はそんな大原の言葉を聞いていたかのようにこんな話しをしてくれた。「全共(全国和牛能力共進会)に行ったら、刺激を受けて意識が変わる。ましてや牛引っ張った人はすごく感じるんだよ。それを仲間にどう伝えるか。行ってない人には、なかなか伝わらないんだ。だけど、そこを熱く伝えないと。JAの担当者とか一緒にさ。熱くね。」

一線から退いた堀の情熱は少しも冷めてはいなかった。いやもしかしたら大原の全国3位入賞が再び、堀の導火線に火を点けたのかもしれない。

 

渡辺町長へ入賞報告21-19

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「本当に皆さんのお陰だし、堀さんたち先輩が下地を作ってくれたお陰なんです。」そう大原は語った。そんな大原たち若手にアドバイスはないか?

そう堀に問うと「オレなんかがあんまり偉そうな事言えないんだけどなぁ。」と笑った後、きりりと面持ちを変え、「やっぱりレベルアップしないといけない。十勝で言えば、豊頃、幕別、池田が前を走っている。もっと皆が共進会に興味を持って、追いつけ追い越せでやってほしい。」と頼もしい後輩たちへ更なる進化を期待すべく檄を飛ばした。

5年に1回の「全国和牛能力共進会」次回は2027年、地元・北海道での開催だ。大原は「そろそろ未経産の若メスの調教を始めようかな。」と既に動き始めようとしていた。堀たち先達が説き、大原らが実体験した「結集力」を高め、次の大会には足寄の牛が一頭でも多く出場し、1席に輝く事を願っている。現在、「足寄町和牛生産改良組合」は、「大浦貞一(おおうらていいち)」組合長の下、44戸の組合員が参加。繁殖頭数は令和3年の12月31日現在で、2,352頭。北海道でも上位の頭数を誇る。

ここにもう一度記しておこう。「足寄町和牛生産改良組合」のスローガンは、「一に血統 二に愛情 三に『人の和』で牛づくり」だ。

 

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「足寄町和牛生産改良組合」(大浦貞一組合長)

 

 

【 参考資料 】

「足寄町和牛生産改良組合 設立十周年記念誌 あしょろ和牛」

 

 

※ コラム内の情報は、2023年1月現在の情報です。

 

 

 

 

 

 

 

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