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足寄物語~Ashoro Stories その15 「UPIオンネトー」

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2022年6月1日、阿寒摩周国立公園内のオンネトー国設野営場に新しいスペース「UPIオンネトー」がオープンした。

このコラムでは「その6 オンネトー国設野営場」にも登場した大阪・箕面市に本社を置き、欧米のアウトドアブランドの製品を輸入・販売する

「株式会社アンプラージュインターナショナル=UPI」の全国4番目、そして北海道初の直営店が「UPIオンネトー」だ。

 

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その昔、オンネトー国設野営場の周辺には、「オンネトー青年の家」、そして「オンネトー茶屋」があった。2つの施設はそれぞれ子どもたちの林間学校や登山者などの憩いの場として利用されていたが、「オンネトー青年の家」が平成9年、「オンネトー茶屋」が平成30年にその役目を終えると、

以降、野営場とそれを管理する管理棟のみがあっただけでキャンプ以外でこの地をゆっくりと堪能する施設はなかった。そのため北海道の呼び掛けで

足寄の町民有志が「オンネトーの魅力創造委員会」を設立。道や環境省と共に新しい休憩舎の必要性を検討し、環境省・林野庁・北海道の協力を得て

足寄町が建設に着手した。新休憩舎は「オンネトー茶屋」がそうであったように、町が「あしょろ観光協会」に管理を委託。更に観光協会はUPI社と事業パートナーシップを結び、施設の運営をUPI社と共同で担う事になった。休憩舎は「UPIオンネトー」と名付けられ、野営場の受付や足寄を中心とした

十勝や阿寒摩周国立公園の観光案内に加え、UPIが扱うアウトドアギア、足寄のチーズやビーフジャーキー、道内外のクラフトビールにコーヒーやお茶、そしてソフトクリームなど軽い飲食物などが販売されている。またトイレはもちろん、シャワールームも完備し、更には念願のWi-Fiが通った事でアウトドアで楽しむ事は無論だが、ワーケーションの場として豊かな森と美しい湖に囲まれ、ゆったりと仕事が出来る施設となった。

 

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「この自然を守る事に尽きますよね。」彼は柔和な面持ちで、しかし、しっかりとした口調でそう言った。「自分たちが来て、このオンネトーが荒れてきたなどと言われる事は絶対にないようにしたい。ここの自然と共生した活動が出来れば。」

彼とは「株式会社アンプラージュインターナショナル」の代表取締役社長「本間光彦(ほんまみつひこ)」その人だ。優しい笑顔と柔和な喋り口調を

武器に、その人柄の良さで私たちをたらし込む「人たらし」だ。加えて長身でハンサムだからきっと異性にもモテる。そう推測する。穏やかで、謙虚で、誠実な印象。そんな人物だ。

 

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1969年、山口県の小野田市、現在の山陽小野田市に生まれた本間光彦は、大学は関西の大学に進学した。「単位が取れる」という理由から、船で各国を巡る洋上セミナーに参加した事で、なんとなく「船に関わる仕事」が出来たらいいと卒業後の就職先を探した。そんな本間が見つけ出したのは、船舶の所有はないものの、国際輸送のオペレーションを取り仕切る大手の倉庫会社だった。国内外からの貨物輸送を請け負い、その輸送方法として船だったり、飛行機だったり、貨車などを駆使してプランを立てる、そんな仕事が「面白そうだ!」そう感じたからだった。また海外にもいくつもの拠点を持っていたから「ゆくゆくは海外でも仕事がしてみたい。」そんな夢も持った。

ただ、実際には、日本国内の倉庫勤務を8年程。そこから国内営業へ異動となり、海外での仕事という希望も、もう忘れかけていた。そんな時だった。会社は本間に東南アジア地区の首席補佐としてマレーシアへの駐在を命じた。遂に念願叶っての海外勤務だ。しかも栄転。さぞ小躍りした事だろう。

ところが本間は、「いやそれが・・・」。実はマレーシア赴任の5日前に待望の娘さんが生まれたのだ。「なんでこんな時に海外勤務をってそう思いましたよ。」本間は後ろ髪を引かれる思いでマレーシアへと旅立った。

 

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マレーシアでの待遇は良かった。運転手付きの車があてがわれ、住む場所もプールがついた高級なコンドミニアム。仕事は忙しかったが、アジアを飛び回り、充実していた。しかし、本間の頭の片隅にはいつも生まれたばかりの娘さんの事が離れなかった。「スカイプを繋いで娘とやり取りしてても虚しいんですよ。」しかも一度海外勤務に出るといつ日本に戻れるのか分からなかった事が、本間を一層憂鬱にさせた。「丁度その頃、東南アジアで大きな地震があって、マレーシアって建物がレンガ造りで美しいんだけど、地震に弱いんですよ。万が一、ここで死んじゃったら後悔するなぁと思って。」

当初の希望の海外勤務も一応叶った。「だからまあいいか!って。」本間はすっぱりと会社を辞め、帰国した。40歳の時だった。

 

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「なにか輸入とか輸出をする会社をやりたかったんですよ。」前の仕事の経験から輸出入の物流に関してはノウハウを持っていたため、本間は退職後、漠然とそう考えていた。ただ輸出の方は現地に信用のおけるパートナーが必要だったため断念。輸入販売一本に道を絞り、会社を興した。2010年の事だ。社名は「アンプラージュインターナショナル」。その意味は?と問うと「娘の名前が『渚』って言うんですが、フランス語で『渚』は『Plage(プラージュ)』なんです。で『Plage』の前置詞に『Une(ウンヌ)』という言葉が付くんですが、読みにくいので勝手に『Une』と『Plage』をくっつけて、読み方も『アンプラージュ』としたんです。」「娘のように大切な商品を大切に扱いたいっていう想いがあって。」本間は照れくさそうにそう話してくれた。もっとも、海外へ商談に出かけると「これは何て読むんだ?」と質問攻めにあった事から、「『UPI』と呼んでくれ!」と今は「UPI」という名前で通している。

 

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「娘のように大切な商品を扱いたい。」と起業した本間だったが、最初からアウトドアギアを扱っていた訳ではなかった。むしろ全く逆のモノ。それは「子供服」だった。「輸出入の会社にしたかったんですが、モノは何でも良かったんです。」そんな本間が選んだ商品というのが、「子供服」だったのだが、理由は「子どもが生まれたばかりだったので・・・。」本間はそんな風にして子供服の輸入販売を始めた。しかし!輸送コストの計算は出来ても、仕入れた服が、日本のトレンドに合っているのかは全く分かっていなかった。当然のように服は売れず、困り果てた本間は、すがるようにある輸入ビジネスの勉強会に参加する。ところがここで運命の出会いが彼を待っていた。

 

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勉強会に行くとたまたま隣り合わせた女性がなにか変わった形の商品を持っていた。不思議に思った本間は「それはなんですか?」と聞くと、彼女は「ケリーケトルです。」と答えた。女性が扱っていたのは、1890年代にアイルランドの漁師が考案したお湯を沸かす道具だった。聞くとご主人がアウトドアに詳しく、この商品を扱ってみては?と薦められ、彼女自身はよくわからないままに輸入販売をしているのだという。一方の本間もよくわからない「子供服」に手を出し、四苦八苦していた。そんなやり取りを見ていた勉強会の講師が一言。「そこの2人、それぞれ商品を変えてみたらいいんじゃない?なにか問題ありますか?」。2人は「いえ全然ないです。」こうして本間とその女性は互いの商品を交換。北海道弁で言うばくりやっこした。

これが現在のUPIに繋がる本間とアウトドアギアとの出会いだった。

 

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「ケリーケトル社」からも正式にOKが出て、本間のUPIは正規輸入代理店として、ケリーケトルを取り扱う事になった。本間はスーツケースにケリーケトルを詰め込んで、飛び込みで営業をかけた。しかし、そう簡単に売れるはずもない。家族を養わなければいけない本間は百貨店での高級ベッド販売のアルバイトをしながら食いつないだという。「それが結構売ったものですから、正社員に誘われました。」当時を振り返り、本間はそう言って笑った。またその頃、現在の副社長である、弟の「輝彦(てるひこ)」も脱サラしてUPIに入社。兄弟2人、二人三脚で会社を軌道に乗せようと身を粉にして働いた。

 

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2人は、インターネットで面白い商品を見つけては、メールなどでコンタクトを取り、取り扱うブランドを増やしていった。ところが、ある時、人気だったバッグのブランドから一方的に契約を打ち切られてしまう。UPIは途端に窮地に追いやられた。本間はこの時、ある事に気づく。これまで自分たちは契約相手と直接会う事もないままに契約し、互いの信頼関係を築けていなかった。「これじゃダメだ。改めようと思いました。」本間は、妻に頭を下げてお金を借り、海外での展示会に出かけた。この時に契約を取れたのが、現在もUPIの主力商品となっている浄水器ブランド「ソーヤー」だった。

 

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ソーヤーはすぐには売れなかったが、しばらくしてブランド自体のヒット商品「ソーヤーミニ」が発売されるとUPIの業績をグンとアップしてくれた。

本間は信頼関係を築く事の大切さを痛感した。その後も2人は果敢にブランド獲得に汗をかき、会社は徐々に軌道に乗っていった。そんな時に出会ったのが、現在、UPIの代名詞とも言えるナイフブランド「モーラナイフ」だった。当初本間は、着火する道具を探しており、インターネットで様々な着火道具を探すうちに辿り着いたのが「モーラナイフ」の動画だった。その動画では、モーラナイフの背でメタルマッチを擦り、火を着けていた。

「これはいい!」と本間は一目で気に入った。同時に忘れていたある体験を鮮明に思い出す事になる。

 

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1995年、サラリーマンだった本間はこの時、神戸に住んでいた。年が明けて間もない1月17日。まだ本間も寝ていた早朝だった。突然神戸の街をマグニチュード7.3の大地震が襲った。本間は、命からがら社員寮の部屋から這い出し、100メートル程のところにある小学校に避難しようと向かったが、辿り着いたのはもう昼もとうに過ぎた頃だった。小学校までの道すがら瓦礫の中にとり残された人の救助をしていたからだ。本間はその時の事をこう話してくれた。「押しつぶされた家の下にいる人を救うのに屋根板をはがしたり、壊そうとするんですが、何せ道具がないんですよ。あの時、切ったり割ったりできるしっかりとしたナイフみたいなものがあればいいのになぁって思ったんですよね。」「1月じゃないですか。もう寒くて寒くて。だけど火を着けようにも着けられない。」「とにかく喉が渇くんですよ。」「お湯なんか夢のまた夢でした。」阪神淡路大震災を経験した時、本間は確かにそんな事を感じていた。そんな記憶が「モーラナイフ」の動画を見た時、瞬時に蘇り、そしてすべての点が線となって繋がった。「モーラナイフがあれば、モノを壊す事も作る事も出来て、火も着けられる。火が着けばケリーケトルでお湯が沸かせる。水はきれいなものでなくてもソーヤーで浄水すれば飲める水になるからそれを沸かせばいい。」あの時に本間が欲しかったモノを、今は自身が取り扱っていた。本間の中でアウトドアギアの可能性が広がった瞬間だった。あとは「モーラナイフ」だけ。本間はすぐにモーラナイフ社にコンタクトした。

 

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「モーラナイフ」はスウェーデンのモーラ地方のブランドだが、本間がコンタクトした時、モーラの2大ブランドが合併したばかりで名前も「モーラ・オブ・スウェーデン」と言った。「その頃はまだナイフに関する知識もなかったので契約も不安だったんですが、丁度、合併直後でゴタゴタしていたようで、売らせてくれと頼むと『日本から?じゃあやってみれば。』って」本間の生まれ持った運がここでも微笑み、「モーラナイフ」の販売契約を取り付ける事が出来た。ところがその後、日本からの契約依頼が相次いだモーラナイフ側がUPI1社だけでなく、何社かと契約するという方針を通告してきた。「そんな事になったらうちなんか太刀打ち出来なくなる。」本間はすぐさま、モーラナイフへの熱い情熱を綴った資料を作成し、それを携えてスウェーデンに飛んだ。2015年の冬の事だった。

 

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スウェーデンに着いた本間は、モーラ行きの列車に飛び乗った。予定では約束の時間の2~3時間前には到着するはずだ。ところが本間を乗せた列車は途中駅で停車すると、その後、1時間経っても、2時間経っても発車しなかった。度々入るアナウンスはスウェーデン語で何を言っているのかさっぱり分からない。気持ちばかり焦っていると、隣の女性が英語で話し掛けてくれ、訳を話すと電話を貸してくれた。自分の携帯電話ではスウェーデンで電話をかけられなかったのだ。本間は借りた電話でモーラナイフ社に、「遅れるかもしれない。」事を伝えた。ところが散々待たされた挙句、列車はもう動かず、バスで代替運行するという事になる。「これはもう会えないかも」と思った本間はダメ元で日本にいる弟の輝彦に「先方に資料を送って!」と

ショートメールを送ってみた。するとすぐに「わかったよ!」と返信が届く。「電話は繋がらないのにショートメールは送れるんだ。」変なところに

感心しながら本間はバスに揺られた。しかし、このトラブルもまた彼にとっては女神の微笑みだった。

 

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約束の時間から3時間遅れでモーラナイフ社を訪ねると、社員は皆、帰っていなかったが、担当の役員は本間を待っていてくれた。「よく来たな。」と迎えてくれたその役員は、「お前たちの考えはよーく分かった。これからもUPI1社に日本の販売を任せる。」と言うと、「まあそれよりこれでも食べろ」と用意しておいてくれたお弁当を手渡してくれた。この対応に本間自身は「???」。実は、「もう会えないかも」と、事前に資料を送っておいた事が功を奏した。本間を待つ3時間の間、その役員は資料を熟読してくれていたのだ。本間は「もし列車が普通に着いていたら私の下手な英語のプレゼンで契約はなくなっていたかもしれない。ラッキーでした。」とまたも素敵な笑顔を見せた。モーラナイフ社とはその後、「モーラナイフ・アドベンチャー」というイベントを、スウェーデン国外で初開催した「モーラナイフ・アドベンチャー・イン・ジャパン」を行った事で、その関係は盤石のものとなり、モーラナイフはUPIの看板商品となった。そしてその「モーラナイフ・アドベンチャー・イン・ジャパン」が行われた場所こそ、足寄町の「オンネトー国設野営場」だった。

 

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「モーラナイフ・アドベンチャー・イン・ジャパン」は、2018年、19年と2年連続でオンネトーで開催された。このイベントが縁で今回の「UPIオンネトー」へと繋がった事は言うまでもなく、あの時、本間がモーラナイフの動画を見つけなければ新しい休憩舎はまた違う格好のものとなっていただろう。「オンネトーに新しい施設ができるらしい。そんな話しはなんとなく聞いていて、チャンスがあれば手を挙げさせてほしいとは思ってました。」続けて「でもまさかこんなに早くできるとは思ってなかった。」と本間は言う。世界はパンデミックに襲われ、密を避ける遊びとしてアウトドア業界が盛況だとは言っても、この時期に新事業を始める決断は勇気がいったろうと推測する。「そうですねぇ。ただうちに北海道出身の社員がいたというのも大きかった。彼がいなかったら出来なかったかもしれませんねぇ。」その北海道出身の社員というのが、「UPIオンネトー」店長「押谷啓汰(おしたにけいた)」だ。

 

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「足寄には来たことはなかったです。」と話す押谷店長は、生まれは滋賀県だが、すぐに旭川のお隣東神楽町に移ると、そこで高校卒業まで育った。

大学で京都へ行き、アウトドアショップでアルバイトをし始めた事で、登山、そしてクライミングと出会う。卒業後はこのお店でバイトしながらフリーターという身分を謳歌していたが、2年が経った頃「そろそろ就職しなくちゃなぁ」と、ある有名フットウェアブランドに就職し、北海道へ戻って札幌に住んだ。ところが、そこでコロナ禍の影響をまともに受けてしまう。雇い止めだった。この事が、押谷を再び、京都へと向かわせる事になる。戻ってみた京都では、「UPI京都」がスタッフを募集していた。押谷にUPIの印象を訪ねると「良い環境で仕事ができています。自由の効く会社で色々と自分で

考えて仕事できるので楽しいですね。」と返ってきた。そんな押谷は入社1年でありながら「UPIオンネトー」の店長に抜擢された。プレッシャーは感じてはいないのだろうか?「うーん。プレッシャーはないですね。逆にがんばって期待に応えようっていう方が強いです。」なんとも頼もしい言葉だ。

では足寄での田舎暮らしはどうだろう?「居心地メチャクチャいいです。」「地元!って感じがしますね。」押谷は足寄が故郷、東神楽に似ていると言う。店長としての彼は「ここオンネトーで見映える店舗を作っていきたいですね。冬の営業はないんですが、単発でサウナイベントとか冬のワークショップなども考えていきたい。UPIはこれまで雪との接点が少なかったので、今後は『雪』『冬』をテーマにしたギアを発掘していきたいです。」と目指すビジョンを語ってくれた。

 

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本間社長は言う。「うちの製品はオンネトーで使ってほしいものばかり。ここなら説明は要らない。使ってもらえばいいんですから。」UPIオンネトーでは、取り扱うアウトドアギアをレンタルできる。正直、UPIの製品は上級者向けの高価なものが多い。使ってみないで購入するには勇気がいるが、ここならその製品を安い料金で使えるのだから試してみない手はない。またUPIの特徴としてアウトドアの各分野のオーソリティがアドバイザーとなり、数々のワークショップを開いている事が挙げられる。阪神淡路大震災で被災した経験を元に、アウトドアのスキルを防災に生かす「UPIスタディトレッキング®」(※1)を始めとして「ナイフ」や「ハンモック」「料理」などなど。今後「UPIオンネトー」でも月に1~2回のワークショップを予定しているという。「鎌倉、京都や表参道では色々な制約がありますが、ここは出来ない事がないくらいですからね。」と本間。そんな事を通して「自然の良さを分かる人がたくさん増えてほしいですね。」と話し、「この手つかずの自然をこのまま次の世代に渡さなくては。」と自戒を込めるように呟いた。

 

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「UPIオンネトー」がオープンするまでに多くの方が関わってきた。「環境省」「十勝総合振興局」の担当者、「オンネトーの魅力創造委員会」のメンバー、UPI「本間光彦社長」、「本間輝彦副社長」、UPIアドバイザーの「寒川一(さんがわはじめ)」さん、「寒川せつこ」さん、事業開発マネージャー「井上ゆい子」さん、店舗統括マネージャー「近藤友里絵」さん、店舗統括アシスタントマネージャー「井口翔平」さん、UPIオンネトー「押谷啓汰店長」、マーケティング部所属であり、現在押谷店長と共に「UPIオンネトー」で奮闘する「ニール・ククルカ」さん、UPIのサイトの「UPI STORIES」で素敵な文章を書かれているライターの「今井栄一」さん、彼こそが本間社長にオンネトーを教えた方だ。今井さんはこれまでも「UPI STORIES」の中でオンネトーについて書かれているし、今回の「UPIオンネトー」についてもシリーズで書いてくれている。是非UPIのサイトから「UPI STORIES」をご覧になっていただきたい。そして、UPIサイトで写真を手掛ける写真家「大社優子(おおこそゆうこ)」さん、最後にUPIのアートディレクションや配信動画「UPI SESSIONS」の進行役などでお馴染みの「釜田俊介」さん、更に本社の方で動いてくれたスタッフも大勢いるだろう。また足寄町の多くの業者さんも携わっていただいた。足寄町役場職員、あしょろ観光協会職員も無論だ。まずはお疲れ様でした。あんな素敵な施設をありがとうございます。

 

それじゃあ今から「UPIオンネトー」に行ってこようかな。きっとオンネトーは今日も、光り輝いて僕らを待っててくれるはずだ。

 

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(左)UPI本間輝彦副社長(右)UPI本間光彦社長

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「UPIオンネトー」 足寄郡足寄町茂足寄 (0156) 28-0115

◇ 営業期間 2022年6月1日(水)~10月31日(月)10:00~17:00 無休

◇ 野営場は当日受け付けのみです。

Instagram https://www.instagram.com/upi_onneto/

 

「株式会社アンプラージュインターナショナル」 

公式サイトhttps://upioutdoor.com/

Facebook https://www.facebook.com/uneplage/

Instagram  https://www.instagram.com/upi_outdoor/

 

 

※1「UPIスタディトレッキング®」については、「足寄物語 ~ Ashoro Stories その6 オンネトー国設野営場」を

ご参照ください。

 

※ コラム内の情報等は2022年6月現在の情報です。

※ オンネトー国設野営場ご利用の際はルール・マナー・注意事項を守ってゆっくりとお楽しみください。

足寄物語

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