足寄のおいしいお店をカードにした「銘店プロジェクト」のお店を辿る「あしょろ銘店探訪」。5回目は、居酒屋「海平(かいへい)」。
自分が足寄を出たあと、1986年に開店したこの店は、足寄の町民に愛される銘店の一つに数えられる。
「海平」が、現在の店舗になったのは1995年の事。それ以前は今の店と同じ一丁角の丁度逆側辺り、北に面して営業していた。現在は足寄産の馬肉などが味わえる居酒屋「北の大地 ひでちゃん」の場所だ。この「ひでちゃん」と以前、このコラムにも登場した老舗の蕎麦屋「丸三真鍋」の間には南に抜ける中小路がある。賑やかだった三笠通と平行して走るこの通りは、正式な名前がついている訳ではないが、町の人は「呑兵衛横丁」だとか「親不孝通り」などと呼んだ。そんな通称でお分かりの通り、往時この中小路は飲み屋街で、自分が小学生の頃などは、子どもながらに「近づいてはいけない場所」そんなイメージがあった。丸三真鍋の大将、「真鍋雅美(まなべまさみ)」にそんな話しをすると、「オレが子供の頃は、朝学校行くのに家を出ると、割れたビール瓶や酒瓶が転がってたもんだ。ケンカもよくあったし。」そう振り返った。やはり自分の勘は当たっていた。しかし、そんな危険察知能力があった自分が、十数年後には「すすきの」へ足繁く通うようになるとは・・・。
そんな通称「呑兵衛横丁」「親不孝通り」の賑やかさは今は昔、現在は寂しい限りである。でも「どんな店があったっけ??」ふとそんな思いが湧き、調べてみる事にした。ところが、図書館に行っても資料など残っていないし、町史に載っている記録は古すぎてこの中小路の事はわからない。
そこでダメ元で町の老舗の酒屋「坂井商店」の門をくぐった。ここには先代から店を継いだ一つ下の後輩「ジャガ」がいる。ジャガイモみたいな顔だから「ジャガ」。多分そうだ。その「ジャガ」に訳を話すと、「ちょっと待って」と奥から出してきたのが、推測するに30年から35年前に新聞販売店が
配った足寄・本別・陸別の市街地図だった。もうボロボロになった地図を広げると現在の道の駅、元の足寄駅周辺にあった店の名前が並んでいた。
懐かしいお店ばかりだ。一気にテンションが上がった。持つべきものは「ジャガ」だ。
この写真を見て、まず目についたのが右下の広告「三益モータース」に「ミネデンキ」と来た。「懐かしい!」更に地図にも今はもう無くなってしまったお店の名前がずらりと並ぶ。もう一気に少年時代へと逆戻りだ!と行きたいところだが、ダメだダメだ。まずは「吞兵衛横丁」だ。この地図を見ると今の「丸三真鍋」側には、「オアシス」というスナックがあり、その隣に今は三笠通に店を移した「鳥せい」、そして「春駒」が並び、更に今年お孫さんが駅前に復活させた「ひさご」と続く。逆に、通りを挟んだ今の「ひでちゃん」側には、「とりよし」その隣には「大井アパート」があり、「味富」という店がある。そして角に「有田旅館」があって、その隣が「あかつき」というスナックだったようだ。そしてこの「有田旅館」や「あかつき」が
無くなった跡地に、1995年オープンしたのが現在の居酒屋「海平」だ。
現在の居酒屋「海平」を取り仕切るのは2代目である「真鍋晋太郎(まなべしんたろう)」。暖簾をくぐると晋太郎は、優しく照れくさそうな笑顔で
迎え入れてくれた。その笑顔だけで彼の人となりを窺い知る事が出来た。聞けば今年40歳だというが、とてもそんな風に見えないまだ20代後半の青年の
ような印象だった。そんな2代目に「海平」の歴史を聞くと「海平」は最初に書いた通り、1986年に創業されたが、元々は足寄の木材会社「岡崎木材」の社長が自分の息子さんのために開店させた店だそうだ。しかし、間もなくしてその息子さんが店をやるのを辞めたため、岡崎社長は当時麻雀荘を経営し、その昔は「本別グランドホテル」の調理場で働いていた晋太郎の父、先代の「真鍋悠治(まなべゆうじ)」に白羽の矢を立てた。こうして先代は、「海平」を任され、自らが包丁を握って、店を切り盛りする事になる。それが今に続く「海平」の始まりだった。
先代の悠治さんは、2019年5月にまだ60代で天に召した。その悠治さんの事を「丸三真鍋」の真鍋雅美さんに話しを聞いた。その苗字からも分かる通り、「海平」の真鍋家と、「丸三」の真鍋家は親戚だ。悠治さんと雅美さんとは、またいとこ同士に当たる。悠治さんは、雅美さんよりも3つ年上で、子どもの頃は、一緒に遊ぶなどという事はなかったそうだ。ちなみに悠治さんには、9つ違いの兄「肇」さんがいて、肇さんは父が経営していた「楡(にれ)」というバーをやっていた。この「楡」は名店だった。自分も大人になり帰省した際に二度ほどお邪魔したことがある。店構えはスナックの風情だったが、バーテンダーの装いの肇さんは、軽快にシェイカーを振り、カクテルグラスに美しいお酒を注いだ。レコードがずらりと並び、スピーカーからは「マーヴィン・ゲイ」が流れていた。おいしいお酒の飲める素晴らしいバーだった。お姉さんの「邦子」さんも「吞兵衛横丁」の一角で「邦家(くにや)」というスナックをやっていたそうだ。そんな飲食の商売をする一家に生まれた悠治さんは、雅美さんによると20代後半には、麻雀荘の経営を始めており、「だからけっこう遊びが好きだったんじゃない。麻雀もやったろうし、ビリヤードとかあんなのも好きだったと思うよ。ゴルフもやってたしね。」と教えてくれた。
そんな父の働く「海平」に2代目の晋太郎はよく遊びに行ったという。「お父さんに会いたいと思って行ってたんです。」と彼は言った。息子の目には、見事な包丁捌きを見せる父がカッコ良く見えた。だから晋太郎は、足寄高校を卒業すると迷わず札幌の調理師専門学校へ進学した。
卒業後は、市内の居酒屋、イタリアン、焼肉店などで腕を磨き、様々な料理を覚えた。そんな晋太郎にある時、父から1本の電話が。「これからどうするんだ?足寄に帰ってくるのか?それとも札幌にいるのか?」そんな父からの問いに、「ゆくゆくは足寄に戻りたい。」と息子は答えた。
それを聞いた父は、「海平」の屋号を受け継ぎ、現在の場所に現在の店を建て、独立した。
晋太郎が足寄に戻ったのは、今から14年前の事。当初、札幌生まれの奥様からは「行きたくない」と拒否されたそうだ。しかし、当たりは柔らかいが芯の強い晋太郎の想いに奥様が根負け。足寄についてきてくれた。現在は3人のお子さんにも恵まれ、晋太郎曰く、「今は自分の町のようになってます。」と目元を緩ませた。そして大好きな父と働く事は、「楽しかった。」とポツリ。父が亡くなった後の苦労を聞くと、「ありました。経理から全部自分でやらなくてはならないので。」言葉少なにそう話してくれた。
銘店カードは、ランチをおすすめするカードだが、コロナ禍となり、現在の「海平」のランチは弁当の注文のみでお昼は店を開いていない。
契約している企業の弁当を作り、それを配達するという塩梅だ。ただし、お昼の弁当はもちろん、法要など各種催事の際の弁当など注文があれば作ってくれるというから電話で注文して味わっていただきたい。さて晋太郎が昼の弁当を配達中のお店には、母の「典子(のりこ)」さんが掃除にやって来ていた。聞くと典子さんは別の仕事をしていたから悠治さんの「海平」を手伝った事がなく、掃除をしに来るようになったのも、「最近なんです。」
と話してくれた。夫が遺したお店を懸命に守る息子の力になりたいそう思っての事だろう。そう感じた。
夜の帳が降り、店先に縄暖簾がかかると「海平」の本番が始まる。先代の頃は、生ものや魚が主流のいわゆる居酒屋メニューだったが、札幌の様々な
スタイルの店で働いてきた晋太郎は、「夜も食事メニューはあります。」と十勝の豚を使った「とんかつ」や「ポークステーキ」、イタリアン時代に
覚えた「ナポリタン」を勧めてくれた。店は基本的に一人で切り盛りするが、忙しい時には奥様にヘルプを頼む。酒は強くなく、お客さんに勧められて飲むくらいで家で晩酌する事はない。とにかく、真面目で寡黙な職人肌の男なのだ。そんな2代目には小学2年生の息子さんがいる。「『海平』を継いでもらいたい?」と話しを振ると、「まあやりたいと言ったら・・・。でもあんまり・・・。一般のところに勤めてもらいたい。」と苦労をさせたくないという親心を覗かせた。
丸三に行った時、大将の雅美さんがこんな話をしてくれた。「晋太郎と晋太郎の妹が小さい頃、よく海平に遊びに来てたんだよ。そしたら悠治くんが、『晋太郎は料理が好きなんだよぉ。』ってよく言ってたんだよなぁ。」果たして息子は父の背中を追い、料理人となって足寄の父の元へ戻ってきた。
父と息子、2人が作ってきた「海平」の物語はこんな風だ。平凡だけど心温もる父と子の物語だ。
「あしょろ銘店発掘プロジェクト No.3『居酒屋 海平』」 足寄郡足寄町南2条2丁目 (0156) 25-6075 営業時間 17:00~23:00 日曜休
※ コラム内の情報は2022年9月現在の情報です。