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足寄物語~Ashoro Stories その14 あしょろ銘店探訪#4「割烹熊の子 / 熊の子地域交流物産館店」

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足寄町でおいしいランチをいただけるお店を紹介する「銘店発掘プロジェクト」お店ごとにカードになっているので通称「銘店カード」と呼ばれるが

こちらのお店をピックアップする「あしょろ銘店探訪」も4回目となった。今回は自分が子供の頃からあるお馴染みのお店「熊の子」。

銘店カード・ナンバー6のこの老舗は、自分が子供の頃は「熊の子食堂」と言われていたが、今は「割烹熊の子」。と言っても足寄っ子はいつの時代も「熊の子」と呼ぶ。昔は子どもながらに「ちょっと高級なお店」のイメージがあったが、豚丼が「美味しかった。」と覚えているから親に連れられて行っていたのだろう。年に幾度か、お寿司を取る時には「熊の子」、もしくは「江戸っ子」だった。どちらの店にも「子」が付いている事に今、気がついた。「江戸っ子」は閉店したが、「熊の子」は、今も足寄のメインストリートにデンと腰を据えて、おいしい料理を食べさせてくれている。

 

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「熊の子」を経営する新津家は、元々飲食業を営んでいた訳ではなく、馬の蹄鉄所を稼業としていた。「足寄百年史」をめくると、「昭和25年当時の西足寄市街復元図」に、今のお店と同じ丁目のもう少し東側に「新津蹄鉄所」という名前をみつける事が出来る。「熊の子」はこの「新津蹄鉄所」のおかみさんだった「新津信子(にいつのぶこ)」が近い将来車社会となり、蹄鉄業だけでは立ち行かなくなると見越して創業したお店だった。もっとも最初はお菓子屋を始めたのだが、6人の子供たちが代わる代わる店のお菓子を食べてしまうため「これはダメだ。」と食堂に切り替えたのだそうだ。

それが1957年創業の「熊の子食堂」だった。店の名前の由来が面白い。信子さんのだんなさん、梅吉さんの友達がある日、捕まえた小熊を蹄鉄所に置いて行き、食堂の名前をどうしよう?と悩む信子さんに「『熊の子』にすればいいべ。」と一言。それで「熊の子食堂」になったと言う。

それにしてももし捕まえてきたのが子犬だったら、今頃は「割烹犬の子」になっていたのかと思うと、つくづく「小熊で良かった。」とそう思うのだった・・・。

 

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創業当初の「熊の子」は、信子さんの食堂と、隣で娘さんが喫茶店を開いていた。その後、信子さんは東京で料理人の修行をしていた次男「哲宏(てつひろ)」を呼び戻し、料理全般を任せた。東京で腕を磨いた哲宏さんが造る「鯉の活き造り」は、供されたあとにお酒をかけると口をパクパクとさせるパフォーマンスが大いに話題となり、たくさんの宴会予約が舞い込んだと言う。こうして「熊の子」は、本格的な日本料理を取り入れ、足寄の町でその存在感を増していった。

 

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「熊の子」には、もう一人、東京の大学を卒業後、料理の道を歩んでいた三男坊がいた。

「新津昭則(にいつあきのり)」、彼こそが初代・信子さん、2代目・哲宏さんから「熊の子」を受け継いだ3代目であり、現在の「熊の子」の当主である。そして現在療養中の3代目に代わって影日向となり「熊の子」を切り盛りしているのが、奥様の「友子(ともこ)」さんだ。

この二人には目くるめく愛の物語がある。東京から戻った昭則さんはお店を手伝ってはいたものの兄がいた事もあり、とても仕事に身を入れていたとは言い難かった。そんな時に足寄のスナックで働いていた友子さんと出会うのだが、ある夏、昭則さんがいきなり友子さんの部屋に転がり込んできた。

友子さん曰く、「恋愛もなにもしてた訳じゃないんだよ。」ではどうして昭則さんは友子さんの部屋に転がり込んだのか、これが嘘か真か「高校野球を見たかった。」それが理由だと言う。夏の甲子園が始まり、どうしても高校野球を観戦したい昭則さんだったが、仕事もせずに朝から野球を見るなど母が許すはずもない。だから友子さんの部屋に居つき、朝から晩まで高校野球を見ていたと言う。友子さんは当時を振り返りこう話してくれた。

「お母さんから電話が来るの。うちの息子を返してくれって。返せって言われてもこっちだって早く帰ってほしいのに・・・。」

夏の甲子園はいつしか準々決勝を迎え、準決勝になり、決勝戦と進んでいった。

 

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「2千円しか持ってなかったんだよ。今でも覚えてるわ。」と当時を振り返り友子さんは憤るが、結局ひと夏、昭則さんは友子さんの部屋に居候を決め込んだ。すると困った事が起きた。夏の甲子園が終わってしまったのだ。我に返った昭則さんは「どうするべ?」。罰が悪く「熊の子」へは帰れない。見かねた友子さんは、「このままじゃヒモみたいになる。」と何と中古車とふとん1組を買い与え、阿寒のホテルの調理場へと送り出したそうだ。

いざ仕事となると真面目に働く昭則さんではあったというが、この時はと言うと「すぐ戻ってきたの。」と友子さん。これはもう甲子園だ、何だと理由をつけているが、単に友子さんのそばにいたいだけだったのだろう。一方でそんな昭則さんに対し友子さんは、「このままじゃダメだ。」と、中標津の結婚式場で料理長を募集しているのを見つけ、今度は二人で中標津へ旅立つ事を決めた。愛の成せる技である。「なんも駆け落ち同然だよ。足寄の人なら皆知ってるわ。」と友子さんはケラケラとそして懐かしそうに笑った。

 

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中標津では給料袋が立ったという位に高給を稼ぎ順風満帆に暮らしていた二人だったが、兄の哲宏さんが帯広でお店を出す事になり、足寄から「帰ってこい。」と矢の催促が届くようになった。本人がダメなら友子さんにとお姉さんたちからも手紙が来たそうだ。「今、帰って来なかったらもう帰って来れんくなるよ!」。友子さんは乗り気ではない昭則さんを説得し足寄に戻る事にした。そんな二人を「熊の子」で待ち構えていたのは、そう信子さん。嫁である友子さんは戻った早々、姑にこう言われた。「この商売、楽できると思ったら大間違い。朝から晩まで働かなければダメ。」そして「これを着なさい。」と渡されたのはツギハギだらけの、もんぺの上下だった。「その頃だってもうもんぺの上下着てる人なんて誰もいなかったんだよ。」「私が辛抱できるか試してたんだねぇ。」信子さんは嫁の友子さんに自家製の味噌の作り方。漬物の漬け方など「熊の子」のすべてを仕込んだ。

友子さんにとって厳しい姑ではあったが、「すごくいい人だった。」と振り返り、「亡くなる時にね。私の手を握ってくれたの。」

信子さんは一生懸命働く友子さんを過不足なく評価し、安心して「熊の子」を手渡したのだろう。

 

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足寄に戻ってから、歓送迎会やら食事会で「熊の子」の料理を何度かいただいたが、35年以上「熊の子」で腕をふるう佐藤和宏料理長の腕前はさすがである。本当に何を食べても美味しい。銘店カードにはおすすめとして「お寿司」「天ぷら」「煮物」「茶碗蒸し」「味噌汁」「漬物」などがセットになった人気メニュー「熊の子セット」が載っている。今回もこの「熊の子セット」を御馳走になったが、やはり美味い!この「熊の子セット」に加えて「かき揚げセット」も人気だし、丼物も各種あるのだが、「熊の子」と言えばなんと言っても「豚丼」だ。そしてその人気の「豚丼」に特化して展開するのが、あしょろ道の駅銀河ホール21のエリアにある「熊の子・地域交流物産館店」。銘店カードナンバーは8。ここの店を任されているのが、昭則さんと友子さんの長男である4代目「新津則之(にいつのりゆき)」「ノリくん」だ。

 

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「ノリくん」は新津家で「神の子」と呼ばれている。実は昭則さんと友子さんは結婚後、およそ10年、子宝に恵まれなかった。跡取りの誕生を楽しみにしていた信子さんもさすがに諦め、新津家のお墓を長男の住む札幌に移す事を考え、その相談で彼の地を訪れたと言う。ただしやっぱり諦めきれなかったのかこの時、札幌の孫の1人に「『熊の子』に養子に入らないか?」と持ち掛けている。そんな話しをしている矢先、足寄から突然の朗報が!

友子さん懐妊の知らせだった。それを聞いた信子さん、くるりと踵を返すと養子を持ちかけた孫にこう言い放ったそうだ。「さっきの話しはなしね。」そんな風にみんなが跡継ぎ誕生を諦めかけた時、新津本家、そして「熊の子」を救うが如く命を宿したとしてノリくんは親戚筋では「神の子」と呼ばれているのだと言う。

 

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「熊の子」念願の後継ぎを信子さんは溺愛した。友子さんはこう話す。「私は親だもん。悪い事したらコツンとやるしょ。そしたら『あんたこの子に葬式出してもらうのによく叩けるね。』って言うんだよ。」更にこんなエピソードも「下校時間が近くなったらおばあちゃんが『友ちゃん時間だよ。』って。そしたら私は冷えたおしぼりと、ジョッキにジュースを注いで、おばあちゃんと車で学校まで迎えに行ったんだよぉ。」と言うと傍らにいたノリくんに「あんた、歩いて学校に行った事ないしょ?」と驚きの一言。そんな風にノリくんの事が可愛くて可愛くて仕方なかった信子さん、「もう年取ったから服は要らない。」と自分の部屋のタンスを空にしたと思ったら、そこにお菓子やら絵本やらおもちゃを詰め始めたそうだ。そう愛しのノリくんを

誘い出すために!なんてチャーミングなおばあちゃんだろう。

 

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「熊の子」4代目のノリくんは、足寄中学校を卒業すると料理の道ではなく、医者を目指すべく道内の名門進学校へ進んだ。しかし、大学受験に失敗すると学校に歩いて通った事のない男は一編に目標を失い実家に戻って、ゲーム三昧を決め込んだ。更に同じ境遇だった高校の友人が家を追い出されたと

ノリくんを頼って「熊の子」に転がり込み、2人揃って怠惰な毎日を送り始めたのだ。これを見かねたのが、足寄出身で彼らの高校の先輩だった政治家で、ウダウダしている後輩を自身の事務所に連れて行き、仕事をさせた。この仕事が思いのほかキツかったそうで、音を上げた2人は「こんな生活はイヤだ!そうだ!大学へ行こう!」と再び大学進学を目指す事を目標に据えた。はずだった。この時、ノリくんはある医療系の大学に受かったのだが、実はもう医者を目指す気はなかった。何を目指したかったのかと言うと「ミュージシャン」。高校時代からジャズドラマーとしてバンドを組んでいたノリくんはプロのドラマーになりたかったのだ。だから母には「どこの大学にも受からなかったから、友達と一緒に東京へ行って一緒に暮らす。」と嘘をついた。ところが!母の元に受かっていた大学から「入学金が振り込まれていませんよ。」という余計な知らせが届き、嘘がばれ、母は激怒。見かねた父が「行きたいなら行ってみろ。」と言ってくれて晴れて東京へ行ける事になる。条件は大学には行く事だったから拓殖大学へ入学した。

 

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東京での暮らしは楽しかったが、ノリくんの身体に異変が起きる。体調を崩して2か月間入院。大学を休学し、足寄に戻って静養する事にしたのだが、ここでまた溺愛育ちがムクムクと顔を出し居心地の良さに胡坐をかき始めたノリくんは、またもゲーム三昧の引きこもり生活に逆戻りしてしまったのだ。そんな彼を救ったのが、国際交流員としてカナダから足寄に赴任してきていた「イアン・ラスカウスキー」だった。ノリくんは「イアンが僕を外に連れ出してくれたから今があるんです。」と言う。イアンは引きこもっていたノリくんを誘っては足寄の人たちに紹介してくれた。更には、2人でバックパッカーとして1か月半の海外の旅にも出かけた。「すごく大変で苦痛だったんだけど、それ以上に楽しかった。人生意外に楽しいじゃんって。」

 

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そんな風にちょっとづつ前を向き始めたノリくんが旅から帰ってくると、道の駅エリアの地域交流物産館で「なんかやらんか?」と誘いを受ける。旅帰りでテンションの上がっていたノリくんは、悩む事なく「やります!」と二つ返事で引き受けた。「ノリで豚丼屋を始める事にしちゃったんですよね。」ただし、当初は夏の間の観光シーズン3ヶ月程度やってやめようと考えていた。しかし、保健所の申請が同じ金額で半年か5年を選択できたから同じ値段ならと5年を申請。「そしたらアッと言う間に5年経っちゃって、気が付けばもう10年になるんです。」ノリくんがノリで始めた豚丼屋は、今や足寄の道の駅グルメとして町を訪れる人々のお腹を満たしている。

 

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ノリくんの豚丼屋「熊の子・地域交流物産館店」は当初、母の友子さんも一緒に切り盛りしていた。ノリくん曰く「苦痛だった。毎日怒られたんです。」一方の母は、「性格が全く違う。私はせっかちなんだけど、この人はのんびりだから。」しかし、友子さんが叱ってきたのはそんな性格の違いだけではなかったはずだ。ノリくんは当時を振り返り、「あの頃はこれだけやればいい。」とか「無意味に頑張らなくてもいいじゃん。」とか「面倒臭い。」とか「早く帰りたい。」とか「そんな事ばっかり考えていたんです。」「お客さんと接するのは楽しかったんだけど、責任感はなかった。」自身の生き方には前向きになったノリくんだったが、仕事に対する考えはまだまだ働く大人のそれには程遠かった。

 

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「熊の子・地域交流物産館店」がオープンして2~3年経った頃、母が体調を崩した。友子さんは、ノリくんに「来年からは自分で考えてやりなさい。」と告げた。母から本格的に店を任されたノリくんは、こう思ったと言う。「ラッキー!」軽い。実に軽い。「これで自由だ!って思いました。」しかし、そんな軽さは実際に店を仕切ってみると木っ端みじんに吹き飛んだ。「いざ、自分で従業員を使ってみると、昔、自分が母に言われた事と全く同じ事を注意していたんですよね。」ノリくんは、「お母さんに口うるさく言われていたああいう修行も大切なんだって思いました。」と話す。更に自分でお店を切り盛りする事でお客さんに頭を下げる事の意味が分かったと言う。「頭を下げる事自体は苦痛ではなかったんです。だけど感謝の気持ちがなかった。」ノリくんは、「熊の子・地域交流物産館店」に「成長させてもらった。」と話した上でこうも。「今は自分で考えてやっているから無気力にならず、生きている実感がある。」すっかり4代目の顔でそう言った。

 

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「熊の子」名物の豚丼専門店「熊の子・地域交流物産館店」。人気は豚丼に豚汁、ラワンぶきの煮物など副菜が5品ついた「豚丼セット」。十勝っ子のソウルフード「豚丼」は、今や全国に知れ渡るご当地グルメとなっているが、その店、その店の「たれ」のレシピがあり、「熊の子」にも、初代・信子さんが作った秘伝のたれがある。そんな初代、実は豚丼発祥の店、帯広の「ぱんちょう」の豚丼に憧れていたそうだ。ある日「熊の子」に常連の3人組がやってきていつものように豚丼を注文。信子さんはいつも来てくれる常連さんによりおいしくというつもりで自分の憧れる「ぱんちょう」を真似て肉を炭火で焼いて出した。するとその常連客は「母さん、なんでこんな事するんだ。オレ達は熊の子の豚丼を食べたくて来てるんだ。二度とこんな事はしないでくれ。」そう言って怒ったと言う。この出来事を信子さんは毎年、孫に話して聞かせた。そして最後にはいつも「だからね、則之。ウチの豚丼の味を変えちゃダメだよ。」そう言って念を押した。熊の子の豚丼のたれにはそんないくつもの物語が継ぎ足されている。65年分の物語が。

どうりで美味いはずだ。

 

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「あしょろ銘店発掘プロジェクト No.6『割烹 熊の子』」

足寄町南1条2丁目 (0156)25-2625 営業時間 11:00~20:00 不定休

 

「あしょろ銘店発掘プロジェクト No.8『熊の子・地域交流物産館店』」

足寄町北1条1丁目 (0156)25-2625 営業時間 11:00~16:00 火曜定休

 

※ お店の情報は2022年5月現在の情報です。(新型コロナの状況により変更あり)

 

(筆者後記)

「取材が終わり、ノリくんにおばあちゃん信子さんの写真をお願いしました。取材中に信子さんの話を伺っていた時には全く信子さんの事は知りませんでした。いやそう思っていました。ところがノリくんに送ってきてもらった写真を見るとそこに写っていたのはまさしく『!熊の子のおばさんだ!』でした。また一つ、忘れていた故郷の一片を思い出す事ができました。」

 

 

このページの情報に関するお問い合わせ

NPO法人 あしょろ観光協会

電話番号
0156-25-6131
ファックス番号
0156-25-6132

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