「雌阿寒岳とオンネトーに魅入られた者 File.1 足寄山友会会長 田村勝夫 その1」
「あぁ!やっぱりオンネトーは最高だな。」足寄山友会会長「田村勝夫(たむら かつお)」はそう言ってこちらを向くと満面に笑みを浮かべた。
その日は、田村会長と待ち合わせし、オンネトーの散策路を歩く約束をしていた。太陽が燦々と照り付ける暑い日だったが、快晴のオンネトーはこれまで幾度となく
ここを訪れている田村に「最高だな!」と言わしめた。田村はおもむろにリュックからカメラを取り出すと写真を撮り始め、ひと段落するとオンネトーの背後にそびえる雌阿寒岳を愛おしそうに眺めた。
阿寒摩周国立公園の西の玄関口「足寄町」の市街地から車で東へおよそ40分。日本百名山の1つに名を連ねる「雌阿寒岳」は、一般的に「雌阿寒岳」と「阿寒富士」の2つの山が並び、その眼下に北海道三大秘湖の一つである「オンネトー」を従える非常に美しい山である。この「雌阿寒岳」は、およそ2万年前の火山活動によって出来た10の山が複合した活火山だ。従って我々が通常「雌阿寒岳」と呼ぶ山は「ポンマチネシリ」という山で、「阿寒富士」も10の山の内の一つなので、これも含んで「雌阿寒岳」というのが正しい。その他には、阿寒硫黄鉱山が硫黄を採掘した「中マチネシリ」。中マチとポンマチの足寄側で挟まれるように「北山」と「西山」。
「阿寒富士」から釧路側には「南岳」と見た目には分からないが、細かく10の山に分かれているのである。とアカデミックに説明するとそうなるのだが、一般的な
オンネトーから見て左側が「雌阿寒岳」、右が「阿寒富士」でいいだろう。オンネトーを含む森の景色は、四季折々や時間、天気などによって様々な顔を見せてくれるが、そのどれもが美しく、日本有数の自然の姿を残す足寄町最大で最高の財産なのである。
足寄山友会の田村会長は、1942年(昭和17年)生まれの御年82歳。山登りで鍛えた足腰は今だ衰えを知らず、スピードこそ遅くはなったものの、傘寿を超えた今も
頂上まで登ってしまうのだから恐れ入る。十勝管内広尾町で生まれ育った田村会長は、勤めていた北海道開発局の転勤で1963年(昭和38年)21歳の時に足寄へとやって来た。元々自然が好きだった事と、写真を撮るのが趣味だった事から度々オンネトーに通っていたが、足寄で知り合った先輩たちが山友会のメンバーだった事もあり「自然が好きなら一緒に山に登ってみないか?」と誘われた事が、82歳の今も登山をする始まりだった。「まずは登山道整備から」と初めて登った雌阿寒岳。「それからずっとだ。」と田村はニヤリとしたが、もう半世紀以上も毎年雌阿寒岳に登っている雌阿寒登山の生き字引と言える人物なのだ。
当時の「足寄山友会」には、「けっこう人数いたよ。」との事で、20人から30人の会員がいたそうだ。主な活動は、登山道整備に観光協会行事のお手伝い、また山友会が自ら企画した登山会なども開催していたそうで、「冬にオンネトーまで歩くスキーのツアーやったり、あれは山友会が初めて取り組んだのさ。」「オンネトーから湯の滝までとか、おんなじコースじゃ面白くないからって、オンネトーから茂足寄に下ったりね。」「多い時で50人くらい集まったんだよ。」
夏はもちろん、冬も含めて「登った時は年間20回は登ったなぁ。」田村会長は誇らし気に教えてくれた。
「何でオンネトーが素晴らしいのかと言うと、他は観光的な人工物がずらっと並んでるしょ。オンネトーにはそれがない。本当に自然の中に飛び込んだって感じさ。」
「ウワーっちゅうくらいね。」田村会長は興奮気味にそう話した。「やっぱオンネトーっちゅうのは誰に聞いても素晴らしいって言うね。」
そう話すと田村は、再び愛おしそうに雌阿寒岳に目をやった。
「あの人は毎日バイクでオンネトーに通って写真撮ってたんだ。」山登りと共にカメラのキャリアが長い田村会長が「あの人」と言ったのは、元足寄町役場職員で
退職後、足繁くオンネトー地区に通い四季折々の写真を撮影。2000年に写真集「星降る湖 オンネトー」を上梓した故「寺島静雄(てらしま しずお)」さんの事だ。
「雌阿寒岳とオンネトーに魅入られた者 File.2 写真家 寺島静雄」
1940年(昭和15年)に道南の今金町で生まれた寺島は、足寄町役場の職員として足寄町に住むと、オンネトーや雌阿寒岳の写真を撮り続け、アマチュアカメラマンとして「世界農林業センサス農林水産大臣賞」や「第29回写真道展北海道開発庁長官賞」「北海道自然100選フォトコンテスト北海道知事賞」など数多くの賞を受賞した。そして1997年に役場を早期退職するとフリーのカメラマンとなり、田村が言った通り、バイクに跨ってオンネトーへと日参し、山、湖、森、動物、植物など、
彼の地の四季をその感性で切り取った。
「あの人はオンネトーの湖面の水の波動にこだわって撮ってたなぁ。」田村は懐かしそうにそう呟いた。「星降る湖 オンネトー」のページをめくるとその通りに、水の波動が美しい写真がいくつも載せられていた。
「雌阿寒岳とオンネトーに魅入られた者 File.3 画家 由良真一」
足寄の町民センターのホールの入り口に「雌阿寒岳」と「オンネトー」を描いた大きな油絵が飾られている。これを描いたのは、お隣の陸別町で生まれ、物心ついた時には足寄の螺湾(らわん)地区に住んでいたという画家の「由良真一(ゆら しんいち)」だ。
「僕はオンネトーの森が好きなんです。最初はオンネトーの入り口辺りの森の中ばかりに入って描いていました。」「あの原生林が好きでしたねぇ。」「妻と二人で森に入って、山ぶどうがなってたら食べたりしながら描いてました。」「あの絵は、久保呉服店のご主人が買ってくださって、町に寄贈してくれた絵なんですよ。」
「オンネトー / Onneto」
“1997年作のこの「オンネトー」の絵は足寄町の農村地区の離農した農家を借りて住まいとアトリエにしていた時に描いた。左から雌阿寒岳と阿寒富士、二つの山が寄り添って並ぶ姿はどこか私たち夫婦と似ているように見える。噴煙はもちろん雌阿寒岳からあがっている。第一展望台、第二展望台、湖畔の桟橋などと場所を変えると違って見える。ある時はよく見えるようにと、一番高い展望台まで行き、満足できず、そばに立っていた白樺の木によじ登り枝に腰かけてスケッチしたこともある。
スキーを履いて凍った湖面から描いた事も。「由良ちゃん、オンネトー描いてよ!」との知人の注文に、自宅の倉庫に片屋根をかけ、100号キャンバスに描いてはみたが、一枚描いては納得いかず、二枚描いてもまだダメでやっと自信を持って見せられたというのがこのキャンバスである。今でも、時折見ては元気がでる。”
画集「Shinichi Yura Searching for Light」より
螺湾から市街へと移り、由良画伯は「からまつ幼稚園~足寄西小学校~足寄中学校」と進み、同級生には松山千春さんや、現在の渡辺俊一町長などがいた。
オンネトーには柔道少年団の合宿で訪れた程度だった。帯広の高校へ進学し、卒業後は語学習得のためにアメリカへ渡る。「英語はアメリカに住んでいるんだからなんとかなるべ。」と興味があった美術系の短大に入学し、本格的に絵画を始めたという。足寄に戻ってからは「鷲府(わしっぷ)」地区の離農した農家を借り、家を直しながら絵を描いた。「オンネトーの冬も好きで、湖面が凍ったらよく行きましたねぇ。」「クロスカントリースキー履いて、オンネトーの湖畔まで行きました。」「雪を描くのが好きだったんですよね。雪に影や光が当たってるのを描くのが好きでした。」「影も青とか紫とか色々に見えて、そういうのが好きだったんですよねぇ。」
柔和な話し口調で、由良画伯は話しを続けた。
「今住んでる池田のこの辺とも違うし、阿寒へ行くとまた違うんです。オンネトーの森はいいんですよねぇ。」 彼が話した通り、2001年に足寄から池田町にアトリエ兼自宅を移した由良画伯。しかし、今年の秋、23年ぶりに再び故郷の足寄へと居を移すという。その理由の一つが、彼の創作意欲を掻き立てる「オンネトー」の存在である事に間違いはないはずだ。その証拠に彼は、現在もオンネトーの森へ通っては、その四季をキャンバスに描き続けている。
「この年になるとオンネトーから池田に帰る運転がキツイんですよ。」故郷に戻る理由を画伯は、冗談めかしにそう言ったが、話しを変えるように「そうそうあとは、秋の紅葉もいいですねぇ。」とオンネトーの森への愛が次々に溢れ出た。そんな由良画伯の作品は、十勝毎日新聞のカレンダーなどにも採用され、目にしている人も
多いはずだ。更に2021年には、初の画集「Shinichi Yura Searching for Light」をリリース。
オンネトーの森や雌阿寒岳はもちろんのこと足寄の風景が数多く掲載されている。
「倒木 / The Fallen Tree」
”2019年9月18日、曇り空だが、オンネトー寄りの道路からすぐの所に、湿地の開けた場所を見つけた。
カバノキの倒木が目に入った。苔むした赤蝦夷の大木の根元に日が当たり、良い色合いを醸している。この日と翌日の2日にかけて仕上げた。”
画集「Shinichi Yura Searching for Light」より
「紅葉の森 / Forest in Autumn」
”2020年10月13日、去年に引き続き今年の秋もここに立つ。この頃になると木も葉を落としているだろう
と思いきや、まだ捨てたもんじゃない。ただ明日ではもうだめだ。色が鈍くなってしまう。阿寒の森、オンネトーは紅葉の色に満ち溢れている。”
画集「Shinichi Yura Searching for Light」より
「雌阿寒岳とオンネトーに魅入られた者 File.1 足寄山友会会長 田村勝夫 その2」
雌阿寒岳に登ってまもなく60年という「足寄山友会」の田村勝夫会長は、カメラのシャッターを切りながら「雌阿寒岳は、よその山と違って、360度ぐるっと景色見られますから。その魅力はすごいねぇ。今でも変わらない。」と初めて雌阿寒に登った時と同じ感動があると教えてくれた。
また田村は、「野中温泉」の「野中祐子」代表が主宰する「めあかん自然塾」でも、長年ガイド役を務めてきた。特別に許可をもらって火口付近に近づく「火山塾」には、自分も昨年初めて参加させてもらったが、いつもは上から見ている火口に入り、間近に「赤沼」や「青沼」を目の当たりにし、火口からもうもうと噴煙を上げる
ド迫力に感激した。「雌阿寒岳は火山活動が間近に見られる。安全登山を心がけてもらって、皆さんにも活火山の勉強をしてもらいたいね。ただ登るだけじゃなくてね。」田村会長がそう言うように雌阿寒岳には地球規模の営みを肌で感じる魅力もあるのだ。「足寄の人にももっともっと登ってもらって雌阿寒を楽しんでほしいねぇ。」田村はすこーし寂し気にそう言うと再びカメラのシャッターを切った。
長きに渡り、雌阿寒岳とオンネトー地区の環境整備やパトロール、また遭難者が発生した時には捜索活動など精力的に行ってきた田村会長は、それまでも環境省や足寄町などから表彰されていたが、更に2019年(令和元年)にその功績を国が認め、「令和元年度自然公園関係功労者環境大臣表彰」を受賞。
名実ともに雌阿寒岳とオンネトーの「番人」となった。
オンネトーの森で、田村会長に「まだまだ登ります?」と聞くと、「うーん。もうちょっと登りたいなぁってね。年齢的に計算してももうちょっと登りたいなぁ。」
そう元気に答えてくれた。
雌阿寒岳とオンネトーに魅入られた者たちは、あの手つかずの自然に敬意と畏れを抱き、それぞれの表現の仕方でそれぞれに彼の地と付き合った。
田村は60年余りをオンネトーに捧げ、由良は今日もオンネトーの森で一心不乱に筆を走らせる。
そして寺島は、今だってあの噴煙の空の上からカメラを構えている事だろう。
こんなに素晴らしい場所がすぐそばにあるとは、足寄はなんと幸運な町なのだろう。オンネトーとは、すぐそこにある、そんな場所なのだ。
「雌阿寒岳とオンネトーに魅入られた者たち」
※ 参考・引用
由良真一画集「Shinichi Yura Searching for Light」
寺島静雄写真集「星降る湖 Onneto」