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足寄物語~Ashoro Stories その33 「川村写真館」

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スマートフォンに内蔵されたカメラで気軽にしかも綺麗に撮影できる現在、写真はより身近なものとなった。スマホでなくても、一眼レフのカメラもデジタルとなり、フィルムを無駄にする事がないから、昔よりも手を出しやすくなっているのだろう。Instagramではアマチュアカメラマンたちが争うように絶景の写真をアップする。自分が子供の頃は、特別な写真は余所行きの服を着て町の写真館へ行き、大きなカメラの前でポーズをとったものだ。足寄の写真館と言えば、そう「川村写真館」。

今年で創業65周年を迎えた。足寄っ子ならば節目節目で川村写真館で写真を撮ってもらった事があるだろう。もちろん自分もそうだ。1歳の誕生日の写真は写真館の

ショーウインドに「飾られた!」と父親が自慢気に話していた記憶があるし、小学校の入学式が終わるとその足で川村写真館を訪れた。学校行事には、必ず川村さんのおじさんが来て、集合写真を撮ってくれたし、中学・高校の卒業アルバム用の写真もそうだった。川村写真館で最後におじさんに写真を撮ってもらったのは高校の卒業アルバム用の写真だった。恰好つけたい年頃真っ只中の高校生はおじさんに、「それじゃ顔が見えないぞ。」と言われても「いやいいんす。」「そうかぁ?」とそんなやり取りをした覚えが微かにある。あの頃の僕らの特別な写真は全部川村さんのおじさんが撮ってくれた。

 

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「川村さんのおじさん」こと「川村写真館」の創業者「川村浩之(かわむら ひろゆき)」は、1936年(昭和11年)生まれ。当時、旅館を営んでいた川村家に養子に入った。写真に興味があった浩之は、本別高校に進学したものの、学校から帰ると「足寄市街大通り」と呼ばれていた国道沿い、今の岩佐書店のある場所にあった「小谷(こたに)写真館」に入り浸り、終いには高校を2年で中退した。その後、札幌の大手「青葉(あおば)写真館」へ写真修行に入るとそこで運命の人と出会う。

後の伴侶「恵美子(えみこ)」さんだ。恵美子さんは青葉写真館で受け付けをしていた。その青葉での修行が5年程経った頃だったろうか。浩之の元に中学校の担任の

先生から一通の手紙が届く。なんでも小谷写真館の他に、もう一軒写真館が出来るらしい、だから「足寄に戻って自分で店を持つ気なら早く帰ってきてやった方がいい!」そう知らせてくれた手紙だった。浩之は、「こりゃいかん。」と足寄に戻る事を決め、運命のあの人「恵美子」さんに「一緒に足寄で写真館をやってほしい。」とプロポーズする。その時の事を恵美子さんはこう話してくれた。「いやぁ。田舎に来るのがイヤだったから、断ったんだけどねぇ・・・笑」まさかのお断りだった。

「それでも何度も何度も一緒に帰ってくれーって言ってくるから。」最後は浩之の情熱に落とされた。

こうして二人は、晴れて足寄へと戻り、1959年(昭和34年)4月3日に結婚。それから3か月後の7月に「川村写真館」をオープンさせた。

 

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青葉写真館では、受付と軽い作業しか手伝っていなかった恵美子さんだったが、自分達の写真館ではそうはいかない。「写真は足寄来てからだね。写真館が出来る前の少しの間、昔の岩佐板金屋さんの2階を借りて住んでてね、そこで修正とか撮影の勉強してねぇ。」「修学旅行の時なんか、一緒に付いて行くから写真館は私がやらなきゃいけないんだけど、『こうやって、こうやるんだよ。』って簡単にしか説明しないで、さっさっと行っちゃうもんだから、分からなくてねぇ笑」「昔のカメラは全部合わせなくちゃいけなかったから難しかったんですよ。」恵美子さんはその当時を懐かしそうに振り返った。しかし、恵美子さんの勉強は、写真だけには留まらなかった。「昔は足寄でも結婚式が多かったでしょ。お嫁さんは、美容室で着付けをするんだけど、お婿さんはウチで着付けしたんですよ。だから帯広の着付け学校に通ってね。本当は1年かけて習うんだけど、『私はどーしてもやらなくちゃいけないからお願いします!』って1か月くらいで男の人の着付けは出来るようにしてくれたんです。」そんな恵美子さんは、来年卒寿を迎えようとは思えないほど矍鑠(かくしゃく)とし、現役でカメラを構え、着付けだって当たり前のようにこなしている。

 

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現在、「川村写真館」を引き継ぐのは、浩之さんと恵美子さんの長男である「川村浩昭(かわむら ひろあき)」。1960年(昭和35年)生まれの浩昭は、共に道場で稽古した足寄剣道連盟の大先輩である。同級生からは「かんぷら」と呼ばれ、自分も今は「かんぷらさん」と呼ばせていただいている。自分が浩之さんのことを「おじさん おじさん」と呼ぶのも、剣道場や大会会場でよくお会いしていたからだ。かんぷらさんの世代は、恐ろしくメンバーが揃っていた世代で、中学・高校共に全国大会に出場していた。5人1チームの団体戦では、かんぷらさんはチームに勢いをつける「先鋒」を務め、ピョンピョン飛び跳ねるように間合いを詰めると多少、遠間(とうま)からでも飛び込み面を取れる強いバネを持ったそんな剣士だったイメージがある。かんぷらさんは、足寄高校を卒業すると東京の写真専門学校へ2年通い、写真の基礎を学ぶと、卒業後は暫く東京にいたかったものの、「早く帰って来い!」と催促する父との折衷案で、父も修行した札幌の「青葉写真館」へ入社。青葉では、配属先に札幌プリンスホテルの写真室を希望し、婚礼写真のイロハを学ぶ事にした。ところが。「土曜、日曜なんて1日25件近く、結婚式の写真撮るんだぞ。それで給料が8万某。それなら早く足寄に戻って、人との繋がり作った方がいいかなって辞めて戻ったのよ。」かんぷらさん22歳の時だった。

 

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足寄に戻ったかんぷらさんは、おじさんと一緒に学校行事の撮影にもよく来てくれた。今回、久しぶりに高校の卒業アルバムをパラパラとめくっていたら

強歩大会の写真と思われる1枚に自分が写っていたのだが、横には何故かカメラを小脇に抱えたかんぷらさんが並んで写っている。という事はこれはおじさんが撮ってくれたものだ。そう思うとなんだか感慨深いものがあるが、かんぷらさんに当時の事を聞くと、「オヤジとは喧嘩ばっかだったわ。」「考え方もやり方も違ったから、難しかったな。」そんな答えが返ってきた。経験を持つ父と新しい技術を学んできた息子。ぶつかり合うのは必然だった。特にデジタルの波が押し寄せて来た時は、「オヤジは拒否だから。」「メーカーの営業が来ても話しも聞かなかったし、ましてやパソコンなんて触ろうともしなかった。」しかし、時代の波は押し寄せてくるどころか

アッと言う間に、アナログ世代を飲み込んでいった。「もう亡くなる5~6年くらい前から全くカメラにも触らなくなったんだ。」

浩之さんは、アナログの衰退と共に自身の役割も終えたように、すべてを息子に託し2017年、81歳で天に召された。足寄の人々の記念の日を写し続けた人生だった。

 

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長年足寄消防団長としても貢献

 

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2010年(平成22年)瑞宝双光章を叙勲

 

浩之さんが断固拒否したデジタル化だったが、かんぷらさんは今、「やっぱりデジタル化しなかったら生き残れなかったな。」とそう話す。「アナログはコストもかかったけど、売り上げはあった。今は逆で売り上げは少ないけど、消耗品が減ったから利幅は高いわな。」自分達が学生の頃には、修学旅行などがあると廊下に写真が貼りだされ、欲しい写真の番号を書いて申し込んだものだが、「あれは大変だった。」「夜中までかかって焼き増しだもの。」その点、今は「ネット販売よ。」これなら親御さんは自宅に居ながらにして写真を選べるし、子供の同級生たちの写真を見ることも出来る。コロナ禍の際は、親が学校に来ることが出来なかったからネット販売が喜ばれたという。ちなみにかんぷらさんの学生時代はというともちろんアナログ方式だったが、「そんなん申し込んだ事ない。だって家にあると思うべやぁ。そしたら申し込まれた分しか焼き増ししてないから、ほとんど学生時代の写真なんてないのよ。」そういって口を尖らせた。

「写真屋に己の写真なし。」これは写真屋さんあるあるなのかもしれない。

 

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学生時代から「元気一杯」。剣道のスタイルすら「元気一杯」だった。そんなイメージのかんぷらさんのそれは今も変わらない。現在は町の代表監査委員として4期目を迎え、「川村代監」と呼ばれているが、「川村代官」と言った方がいいかもしれない町のお目付け役だ。しかし、そんなかんぷらさんも心が折れかけてしまった事がある。写真を見てもらってお分かりの通り、かんぷらさんは現在、車いす生活を余儀なくされている。「まず、30歳くらいの時に右手の人差し指が痺れてきたんだよな。でもその頃は剣道はもちろん、野球にテニスにバスケットボールって、スポーツばっかやってたから、気にしないでやってたんだよ。」「そしたらその内、膝が抜けるような感覚になって、そこで病院に行けば良かったんだけど、ある日とうとう立てなくなってな。これはダメだって病院行ったのが、1998年(平成10年)の10月頃だったかなぁ。」「検査で1ヵ月、治療で1ヵ月、計2ヶ月入院して。そしたら『障害者手帳発行するから』って言われてな。『えぇ。オレ障害者なの??』って。」「でもそこから2~3年は歩けてたんだよ。」しかし、かんぷらさんを襲った病魔は、次第に杖を必要とさせ、次にクラッチ杖を使わせた。「クラッチも初めは片手だけだったんだけど、それが両手になり、いよいよ車いすよ。」かんぷらさんのその時の心中は察するに余りある。「もう引きこもりだ。」

 

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「車いすなんか乗る気なかったから、1年半くらい引きこもったかなぁ。」かんぷらさんはそう言うとその頃の気持ちをこう話した。「ネット開いて、同じような境遇の人の記事を読んでると、そういうページに行って読んじゃう訳よ。」そういうページとは?と思ったが、次の言葉で全てを察した。「別に死ぬ気はなかったんだよ。でもなぁ・・・。ちょっと厳しいものがあったなぁ・・・。」かんぷらさんは、うつむき加減で当時の気持ちをそう話してくれた。そんな、かんぷらさんを前向きにさせてくれたのは、足寄の仲間達だった。「『車いすでもいいじゃん。』って言ってくれて、それで車いすに乗るようになったんだ。」「で、運転もずっとしてなかったんだけど、手動装置があるって教えられて、手動装置つけて2年ぶりくらいに運転してな。それからは今みたいな生活になったな。」かんぷらさんの今の生活は車いすに乗って、飲みにも出かけるし、町のイベントにも顔を出す。代表監査委員として議会や監査の時には、自分で車を運転して役場を訪れ仕事をこなす。「お陰様で周りに誘ってくれる人がいたからな。」「一人ぼっちの人もいるんじゃないか。」「ススキノ行っても車いすに乗ってる人って見ないだろ?」そう同じハンデを持つ人を憂いたが、夜の歓楽街を例に出すところが、かんぷらさんらしい。そして「らしく」なって本当に良かった。

 

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かんぷらさんを「らしく」させたのは、町の仲間達だけではない。家族、とりわけ奥様の「由美子」さんがいなければ「川村写真館」の存続すら危うかった。

「車いすの生活になって、写真館閉じようと思ったんだ。で、嫁さんにそう伝えたら、『私、撮るよ。』って。それで今も続けてられるんだ。」「オレ、結婚する時に

『写真撮らなくていいから結婚するべ』って結婚したんだ。」かんぷらさんはそう言って笑い、「それが今じゃメインになってやってくれてるからな。」と続けた。

外での撮影が出来ないかんぷらさんに代わり、修学旅行などは由美子さんが全て引き受けている。「まさか自分が写真撮る事になるとは思ってなかったと思うよ。本当にありがたい。」インタビューの場に由美子さんはいなかったが、かんぷらさんは、妻への感謝の言葉をそう伝えた。

 

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かんぷらさんと由美子さんは、二人の子宝に恵まれた。長女の「優維(ゆい)」さんは小学校教諭として十勝の小学校に勤めているそうだ。そして「川村写真館」の

3代目となる長男が、現在東京でカメラマンとして大活躍する「将貴(まさき)」さんだ。1993年(平成5年)生まれの現在、31歳。帯広大谷高校を卒業後、祖父、父と同じく写真の道に入るため「日本大学芸術学部写真学科」に進んだ。卒業後は、大学の先輩の写真事務所に入り、その後2019年に同じくその先輩が設立した「株式会社コントラスト」に参加。広告写真から友人などの家族写真まで幅広く活動している。彼の手掛けた広告を目にした事もあるはずだ。近いところでは、2024年夏の甲子園のキービジュアル。キービジュアルとは、それぞれのコンテンツや商品を広告する際のメインイメージ画像の事だ。更にタマホームの広告では、現在メジャーリーグのニューヨーク・メッツで活躍する「千賀滉大(せんが こうだい)」投手の写真を手掛けた。また「Snow Man」の「渡辺翔太(わたなべ しょうた)」さんが主演した日本テレビのドラマ「先生さようなら」の番宣ポスターなどなど枚挙にいとまがない。そんな東京の第一線で活躍する将貴さんは、故郷足寄のことをどう捉えているのだろうか?

「足寄には15歳までいました。今31歳なので、人生の半分は別の場所で生活していることになります。でもそうは思えないくらい、足寄での生活は記憶に残っていますね。特に子供の頃のことって結構鮮明に覚えていて、今でも付き合いのある友達と野球をやっていたので大半はその思い出です。あとは辛かった塾や、習い事の記憶。そして何より家族と食卓を囲んでいた記憶です。うちは仲良しなので、必ずみんなでご飯を食べていました。その日の出来事を聞いてもらいながら食事し、家族みんな大笑いしていた記憶があります。自営業なので、家族が常に家にいることが当たり前でしたが、東京に来てからそれが当たり前じゃないんだな、僕は幸せだったんだなと足寄の事を思い出す度にそう思うんです。」そんな風に語ってくれた。そして家族それぞれの事をこんな風に評した。「家族が大好きです。父親は車いすなのに底なしに明るいので、それに憧れてカメラマンになりました。」「母親は面倒見が良く、人のためならなんでもします。優しすぎるお母さんです。」「おばあちゃんは、年齢を聞くとみんな驚きます。笑顔が素敵で、LINEスタンプが大好きです。あの年でインスタもラインもやってるのは凄すぎます笑」「姉はここ最近結婚して、子供もいて幸せそうで何よりです。正直結婚できないかも笑 と思っていたので、今の旦那さんには感謝しています。すごくお似合い夫婦なので、見ていてほっこりします。すごく困った時は意外と姉に連絡することが多いです。頼りにしていますね。」こんな風に聞いている方が幸せになるような言葉が並び、最後に「おじさん」の事をこう話してくれた。「おじいちゃんは亡くなってしまいましたが、僕にとっては、いて当たり前の存在です。今でも実家に帰ると『いるんじゃないかな』と思ってしまうほど6人で1つの家族でした。おじいちゃんと写真について話せなかった事が唯一の後悔ですね。」そんな初代の残した川村写真館は、「僕にとっては無くしたくないし、いつまでも残しておきたい場所です。」そう話してくれた。

 

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かんぷらさんに、「息子さん、活躍してますね。足寄に帰って来ないんですか?」と質問すると、「戻ってくるとは言ってるけどなぁ・・・。」そこには、戻って写真館を継いでほしい気持ちと、過疎化に晒され難しい経営になる現実の間で揺れる親心が見て取れた。一方、肝心の将貴さんはどう考えているのだろう?

「写真館はこの先経営していくのが難しいとは感じています。ですが、やり方さえ考えれば写真って素敵なものなので、なくなることはないかなとも思っています。」

そして続いて自身が考えるビジョンをこう語ってくれた。SNSを利用して、北海道中をターゲットにしたいなと思っています。そのために今東京で技術も箔もつけています。理想は足寄と東京でのお仕事を両立したいです。それにはまだ時間がかかるので、まだまだ両親とおばあちゃんには頑張ってもらうつもりです。親不孝で申し訳ないなと、いつも思っていますが。ただ、今足寄に戻っても後悔しそうなので、そこは甘えさせてもらっています・・・。」実は足寄と東京を行ったり来たりしてという考え方は、インタビューの際にかんぷらさんとも話していた。「息子さんが足寄に戻って来て、有名人が『川村さんに写真撮ってほしい!』って足寄にわざわざ来るようになったら面白いですね。」と話すと、「そうなったら最高だな!」かんぷらさんはそう言って満面に笑みを浮かべた。

 

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「川村写真館」が、おじさんから、かんぷらさん、そして将来、将貴さんへと受け継がれ、足寄町民が親、子、そして孫に渡って、特別な1日の記念写真を撮っていけたら最高だ。私事で申し訳ないが、札幌で生まれ育った息子が、地域おこし協力隊として思いがけず、家族と共に足寄へやって来た。実は26年前、息子の100日のお宮参りを足寄神社で行い、川村写真館で写真を撮ってもらっていた。更には昨年、その息子の長女、つまり自分の孫娘の七五三の写真も川村さんで撮ってもらった。写真などどこで撮っても同じだろうと言われるかもしれないが、自分の両親や祖父母だって川村さんで写真を撮ってもらった事があるとしたら、5代に渡って川村写真館で写してもらった事になる。それはここにしかないストーリーで、自分にとってはスペシャルなストーリーなのだ。足寄には、おじさんや、かんぷらさんが押したシャッターの数だけそんな特別なストーリーがあるのだ。

 

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今回、将貴さんに写真をお願いすると1枚の写真を送ってくれた。「僕がシャッターを遠隔で押したものです!!これくらいしかありませんでした。でもこれを機に

今度家族写真を撮ってみようかなと思いました。」そう言葉が添えられていた。

 

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これが、川村写真館の。川村家のストーリーだ。

 

 

 

 

 

「川村写真館」 足寄町南21丁目22  (0156) 25-2445

 

川村将貴インスタグラム   https://www.instagram.com/tem0719/

(株)コントラスト     https://contrast-photo.jp/

 

 

 コラム内の情報は、202410月現在の情報です。

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