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足寄物語~Ashoro Stories その18 「詩人 牧章造」

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雌阿寒岳の麓に開湯し100有余年。こんこんと硫黄泉が湧きだす「野中温泉」の露天風呂のすぐ脇に、詩人「牧 章造(まき・しょうぞう)」が、2冊目の詩集「虻の手帳」で発表した「原始林を歩いていく」の一節が詩碑となってひっそりと建立されている。

 

" ぼくは着物を脱ぎ棄ててよい。ぼくは原始林の雫に近づいていく。 出来るなら、あの大きなトド松のてっぺんにとまっている鷹みたいに、

 悠々と風にそよいでいたいものだ ”

 

1978年、昭和53年7月30日に建立されたこの詩碑は、44年の歳月をオンネトーの厳しい自然の洗礼に耐え、刻まれた文字も今ではすっかり霞んでいるが、牧が愛したこの地でその詩の通り、雌阿寒から吹き降ろす風をものともせずに、悠々とそよいでいるように立っている。

 

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自分が、詩人「牧 章造」の名を知ったのは、地域おこし協力隊として活動をスタートさせた2021年の事。故郷の歴史を勉強しようと「足寄百年史」に

目を通していたところ「牧章造の詩碑」という項目に出くわした。それによると牧は、昭和20年代の後半、雌阿寒岳の硫黄鉱山の事務方として足寄の

地に赴き、社業の傍ら、詩人として多くの作品を残したという。「そんな人が足寄にいたのか。」と興味を持った自分は、牧の作品などを手始めに少しづつ彼の事を調べ始めた。

 

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詩人・牧 章造。本名「内田正基(うちだ・まさもと)」は、1916年、大正5年に東京都芝区で生まれた。神奈川の工業高校在学中、同じクラスだった

友人の影響で、文学への憧憬の念を抱き、次第に詩の世界にのめり込んでいったという。そして、後に彼が書いた「ぼくの現代詩史・2」には、「昭和9年から13年までの間は、……… 明けても暮れても朔太郎一点ばりの日々」と記している通り、牧は「萩原朔太郎」に大きな影響を受けた。その後も意欲的に詩作の活動を続けた牧だったが、第2次世界大戦の勃発と終戦。その間、満州に渡ったり、結婚と離婚を経験したりと、国が大きな変貌を遂げる中、自身も紆余曲折を経験していた。そんな牧が、巡り巡って足寄の地へ辿り着いたのは、1953年、昭和28年の事だった。前述したように、雌阿寒岳から硫黄を採掘する「阿寒硫黄鉱業株式会社」に入社した彼は、足寄の市街、以前このコラムでも取り上げた蕎麦屋「丸三真鍋」の前にあった「阿寒硫黄鉱山足寄出張所」の事務員として赴任したのだった。

 

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牧が勤めていた硫黄鉱山についても書いておきたい。雌阿寒岳の硫黄採掘の歴史は古く、「足寄町史」によると、1887年には江戸幕府が調査したと記されている。その後、明治・大正と、採掘調査と休止を繰り返した後、昭和27年に本格的な採掘が始まった。雌阿寒岳の硫黄鉱床は、中マチネシリ頂上の火口の中にあり、ここは足寄町に属している。茂足寄の精錬所では、一時は400人もの従業員が働き、一つの集落が出来ていた。

この集落には、住宅はもちろんの事、小学校や診療所、売店などがあり、映画を観たりも出来たそうだ。硫黄鉱山精錬所の場所は、足寄から国道241号を阿寒に向かい、オンネトー入口を過ぎてしばらく行った左手にあった。今もその森に入ると、道路だった痕跡や、電信柱など賑やかだった往時の姿を

垣間見る事が出来る。

 

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    茂足寄小学校阿寒鉱山分校(菅野孝雄氏画)18_9

牧章造こと内田正基は、足寄に来た翌年に大連で知り合い、彼の詩の良き理解者だった「三島恵美子(みしま・えみこ)」とその長男「敏行(としゆき)」と入籍し、再婚した。前妻との別れに傷ついていた彼の心を恵美子とオンネトーの自然が癒し、4年後の昭和32年には、牧が溺愛した長女「安里(あんり)」が誕生する。安里さんは、現在イギリス・ロンドンに在住しているが、野中温泉の代表であり、自分の同級生である「野中祐子」が安里さんと繋いでくれ、メールでやり取りさせてもらった。安里さんは「父の事を気にしてくれてありがたい」そう言って、お兄さんの敏行さんと共に、分かりうる父や母の記憶や写真などを提供してくれた。

内田家は、硫黄鉱山の出張所があった足寄の市街、昔でいう南区の町営住宅に居を構えていたそうだ。町営住宅は3畳と4畳半もしくは6畳2間の2LDKで、牧は4畳半(6畳)の部屋でいつも詩作や、寄稿文など書き物をしていたと敏行さんが記憶している。

たまに詩を志す若者も出入りしていたそうで、牧は彼らから慕われていた事が伺える。そんな牧章造は、私たちがイメージする詩人、文学者とは少し

違っていた人だったようだ。安里さんは、「父は人付き合いが良くて世話好き。自分を飾る事なく、時には弱みも平気で、見せる人。三度の飯より詩が好きという以外は、およそ文学者らしからぬ人」こう父親を評している。

 

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「私は、『牧章造』は良く分からないの。私が知っているのは『内田正基』さんだから。」そう話すのは、内田家と家族ぐるみの付き合いをしていた「田中節子(たなか・せつこ)」さん。足寄町の南1条2丁目にある「田中美容室」の大先生だ。現在も現役で美容師として活躍する節子さんは、「今の私があるのは、内田さんのお陰です。」と話してくれた。戦争で父を亡くした節子さんは、お母さんが硫黄鉱山の足寄出張所で、住み込みの調理師として職員や鉱山を訪れる本社の偉いさん、ゲストの方々の食事を作っていた。小学生だった節子さんは、職員から大層可愛がられ、食事も一緒に摂っていたそうだ。「本当に良い人ばかりで皆さんにお世話になったの。」そんな良い人の中に、もちろん牧もいたし、中学生になり、「美容師になりたい」と夢を語る節子さんの背中を押してくれたのも牧だった。牧は、「美容師になるには、足寄を出なければいけない。それなら札幌だって、東京だって同じ事だから、どうせなら日本で一番の美容師学校に行きなさい。」と日本の美容師の草分け「山野愛子」の美容学校を薦めてくれた。更には知り合いのつてを使って、入学の段取りまでとってくれたそうだ。牧は、安里さんの言う通り、「人付き合いが良く、世話好き。」な人だった。

 

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左が節子さん、左から2人目が牧章造18_13.JPEG

 

「内田さんは本当に良い方で、背も高く素敵な方でした。紳士でしたね。奥さんも素敵な方でちょっとこの辺にはいない感じの奥さんでした。

お家に遊びに行くと、当時足寄では作る人なんかあまりいなかった『包子(パオズ)』とか『ポテトサラダ』なんかを作って食べさせてくれたんです。

奥さんが腰を痛めて野中温泉に湯治に行った時にも一緒に連れて行ってくれて、敏行ちゃんと登山したり、木苺取ったり。安里ちゃんはまだ赤ちゃんだった。」と節子さんは懐かしそうに話してくれた。更に、傍らから1枚の色紙を差し出すと、「内田さんが、東京に引っ越してから一度、伺った事があって、その時に書いてくれたんです。奥さんが『節子ちゃんにはこの詩がいいんじゃない。』って言って。マッチの軸をほぐしてこれを書いてくれたんですよ。」と思い出の品を見せてくれた。その色紙には、詩集「虻の手帳」に収められている「長靴幻想」の一節が書かれていた。

「本当にやさしくて良くしてもらったの。うちの母の漬物が大好きで。うちみたいなあんな所に来て、ごはん食べてくれたんですもの。」節子さんの

眼鏡の奥の目が少し潤んだように見えたが、ぐっとこらえるようにして自分の方を見ると、「内田さんの事を聞きにきてくれて、本当にうれしいわ。」

そう言ってやさしい笑みをくれた。

 

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左 節子さん、右 安里さん18_15.JPEG

 

野中温泉詩碑除幕式にて、安里さんと節子さんご一家と18_16.JPEG

 

その人柄の良さで足寄の人との交流を深めていった牧章造だが、彼がもう一つ気に入ったのが、雌阿寒岳やオンネトーの大自然。そして野中温泉だった。野中温泉の3代目に当たる「野中信郎(のなか・のぶお)」さんは、若かりし頃、硫黄鉱山で仕事をしていた。牧はこの信郎さんを自分の弟に似ているからと大変可愛がったそうだ。また奥様の恵美子さんの湯治のために毎年夏休みになると2週間程滞在したり、文学の仲間が彼を訪ねてきた時には、必ず野中温泉を訪れ、オンネトーの自然とともに「いいところだろう?」と自慢していたと言う。

牧章造は、オンネトーを愛し、そのオンネトーの自然は彼の作風をも変えた。牧は昭和30年に初めての詩集「磔(はりつけ)」を刊行しているが、この詩集に収められているのは足寄に来る以前の彼の作品を集めたものだ。この詩集について牧の弟の「内田正信(うちだ・まさのぶ)」さんがこう記している。「『磔』に収められた抒情詩は、どれも洗練されて美しく、ぼくも大好きだ。しかし、そこには眉間に深い皺を寄せた兄の渋面を、母が『正基さんはいつも顰っ面をして。せつないのかね。』と手出も叶わず、ただ淋しそうにみつめたその顔を見過ごすわけにはいかないのだ。」

実際に「磔」を読むと、自分のような文学の素養のないものには、かなり難しく感じてしまう。

しかし、昭和40年に刊行した2集目「虻の手帳」には、足寄に住んでいたおよそ9年間に作られたと思われる詩がその大半を占め、雌阿寒やオンネトーの自然の静けさ、美しさ、脅威、また家族との日々が瑞々しく描かれている。弟の正信さんは、先程の文の後にこう続けている。「だから、足寄から次々送られてくる詩の変わりように正直驚いたものである。実際、手紙と一緒に届く家族揃っての兄の写真には、渋面の影すらなく、どれもこれも円満そのものの悦に入った顔だった。」

足寄にいた頃の牧が、眉間に皺寄せる事なく苦悩を忘れ、幸せだったのだろうと思うと、なんだかうれしくなった。

 

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” 夜が朝にかわろうとしている。もうかなり歩いてきたに違いない。ぼくはその恰好な風倒木に腰をおろす。

足の疲れが頭の芯に滲みるほど、原始林はもの音ひとつ立てない。”   (「暁の原始林で」から)

 

” スノー・インセクト。さよう雪虫です。北国エゾの九月下旬、束の間に生れ、束の間に消える白い綿毛の雪虫です。

またやってくる永い冬の前ぶれです。あらゆる家という家で、ぼつぼつ始まる冬仕度の話題と共に、雪虫は現われます。”  (「雪虫の話」から)

 

” そらそらアンリエットのお出ましだ 薪をくべろ ごんごん燃やせストーブを アンリエットが風邪を引いてはたいへんだ ”  

(「アンリエットの唄」から)

 

 錆で赤茶けたニシキ沼附近に 鉱山師が入れ替り立ち替りやってくる 褐鉄鉱の値がつり上る

樹がばたばた伐り倒される騒がしさに そわそわして熊がサルカニに逃げられる

野鴨が湯虫をとり損なう シマリスが枝先でひっくり返る その林道を下っていくと きみと歩いたオンネットーだ ”  (「沐浴 - 亨くんに -」から)

※錆=詩集では金へんに青

 

” 森の中から迷い出てきたエゾ鹿がひょっこり玄関先に現われて、人間と鹿と吃驚した顔をつき合わせたりするという、

此処はそんな山の中のたった一軒しかない温泉宿だ。”  (「鳥獣の日々を懐かしむ」から)

 

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足寄を愛してくれた牧だったが、1962年、昭和37年9月、雌阿寒の硫黄鉱山は閉山した。

なんとか鉱山を存続しようと牧は各所に懸命に働きかけたり、また閉山後も北海道に残れるよう東奔西走するも叶わず、昭和38年北の大地に未練を残したまま本州へ戻り、西武新所沢寮の管理人となる。それからの牧は、管理人の仕事をほとんど恵美子さんに任せきりにし、詩作へと没頭。昭和44年に

3集目の詩集「罠」を発刊した。足寄時代は幼かったためあまり記憶にないという安里さんは、自分とのやり取りのメールでこう書いてきてくれた。「兄は、 父を 内田正基ではなく、ずっと牧章造で生きている人だったと言います。 家族は一番ではなく自分が一番で、そういう自分を生きることに一生懸命だった人、と表現していました。私も父に対しては同じ印象を持っています。父にとって何より大切なのは詩で、文学や詩に関わることは、詩の仲間を含め、ものすごく大切にしていました。父にとっての家族がどれほどの価値を持っていたのかはわかりませんが、それはそれで仕方がないことかもしれません。」「内田正基」は、「牧章造」になる事を目指し、家族を前にして一番「牧章造」だったのかもしれない。

 

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牧章造は、詩にその生涯を捧げ、1970年、昭和45年10月3日、病いのため54歳の若さでこの世を去った。彼の人生には奥様恵美子さんの存在が欠かせない。大連で知り合い、自らも詩を志した恵美子さんにとって牧は憧れの人だったし、牧にとっても恵美子さんは自身の一番の理解者で、詩を書きあげると真っ先に奥様に見せ、批評を受けた。彼の詩の中にも「EMI」として度々登場する恵美子さんは、1978年、昭和58年に北海道の詩人の同人誌である「核」の「牧章造詩碑特集号」の中で、詩碑建立のために尽力された方々への感謝の言葉と共に、「祝い歌」という詩を寄せている。

 

” 小さな碑は歩きだした やさしい人たちの祝福を受けて あの地にまるいかげを落としたときから 歩みははじまった

みえない星々までがみえる 澄み渡った原始林の火の山の麓で 碑はどんな古びかたをし 自然の一部となってゆくのだろう

どんな月日が 碑をとりまくだろう きざまれた文字はいつかとけて めぐる天地にかえる ”

 

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牧章造は、オンネトーの森をアンリエットを抱いて、EMIと敏行と4人で歩いたろうか?

雌阿寒岳の頂から眼下を臨み何を思ったろうか?

森に咲く草花に心は癒されただろうか?

野中温泉に浸かって「うぅー」と声を上げただろうか?

三笠通りは歩いただろうか?

「あさの」のラーメンを食っただろうか? 「美味い!」って言ってくれたのかな?

 

昭和20年代後半からほんの9年ほど、足寄に詩人がいた。北海道を。足寄を。そしてオンネトーを愛したそんな詩人がいた。

 

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「詩人 牧 章造」

 

【 出典・参考資料 】

 

※ 詩集「虻の手帳」(黄土社)

※ 同人誌「山の樹 牧章造追悼号」

※ 同人誌「核 牧章造詩碑特集号」

※ 「足寄町史」「足寄百年史」

 

【 Thanks to 】

 

※ 内田敏行さま

※ 田中節子さま

※ 菅野孝雄さま

 

【 Special thanks to 】

 

※ 英田安里さま

 

[筆者後記]

今回の回で足寄にいた詩人の事を知っていただければとの思いで書きました。

また、手に入れた詩集や同人誌は、足寄町図書館に寄贈するので、是非機会があれば「牧章造」さんの

詩を読んでみてください。特に足寄にいた9年の間に作られた詩が中心の「虻の手帳」には、足寄での

彼の心持に触れる事ができるでしょう。

足寄町図書館では、今回の「足寄物語 ~ Ashoro Stories ~ その18 詩人 牧 章造」に合わせて、

期間限定で「牧 章造コーナー」を開設してくださる事になりました。是非図書館を訪れて彼の詩集を

手に取ってみてください。

最後に、色々なエピソードや写真、また資料を送ってくださった牧さんのご長女「英田安里」さんに感謝

申し上げます。

 

【 牧 章造コーナー 】 

 

2022年11月1日~30日 入場無料

@ 足寄町図書館(足寄町民センター2F)

火曜日~日曜日 10:00~18:00(月曜休館)

 

 

※ コラムの内容等は2022年10月現在の情報です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ファックス番号
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