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足寄物語~Ashoro Stories その32 「『どんころ熊』から『どんころぐま』へ」

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2024年5月、北海道新聞に「足寄の木彫り『どんころ熊』復活」の見出しが躍った。

復活を手掛けたのは、足寄町地域おこし協力隊として活動する「菅原 耕(すがわら こう)」。彼の手による「どんころ熊」は、現在「道の駅あしょろ銀河ホール21」のショップで販売されている。「どんころ熊」とは、足寄町の特産民芸品として人気だった木彫りの熊の事だ。玉切りにした丸太を意味する「どんころ」の名が冠される通り、丸っこいフォルムの「どんころ熊」は、それまでの木彫りの熊とは一線を画し、その愛らしい姿に老若男女が魅了された。

しかし、時代の波には抗えず、職人の高齢化と共にその姿は次第に私たちの前から消えていった。

 そんな「どんころ熊」の復活には、実は自分もいっちょかみしている。

あれは、2022年の秋の事だったろうか。翌2023年度の観光振興案を、あしょろ観光協会事務局長、足寄町役場商工観光振興室の担当、そして自分の3人で練っていた。その中で「『どんころ熊』を作る人はもういないが、『どんころ熊』をデザイン化して商品を作ってみてはどうか?」という企画を出した。そんな流れから「どうせなら木彫りの『どんころ熊』を復活させましょうよ!」という話しでまとまり、「足寄遺産復活プロジェクト」という名の下、「どんころ熊」の復活を目指したのである。

 

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「どんころ熊」のルーツは、昭和40年代の半ばまで遡る。当時全国的に離農する農家が増え、足寄に限らず、全国の市町村の課題となっていた。

そこで足寄町は、対策として離農者などに木彫りの技術を習得させ、地場の木材を活用した木彫民芸品の生産による就労の場の確保と、2次、3次産業の振興を図ろうとした。時は1971年(昭和46年)3月。町は町内西町7丁目に「木彫民芸品加工場」を完成させた。

 この時、現場の担当に任命されたのが当時商工観光課だった「餌取雄四郎(えとり ゆうしろう)」。そして木彫の指導員として「工藤 時雄(くどう ときお)」さんを

採用した。「最初はね、普通の木彫りの熊を作ってたんだよね。その頃は木彫りの熊がブームだったからどんな熊を作ったって売れたのさ笑」御年81歳になるという

雄四郎さんは、そう言って懐かしそうに笑った。加工場は、1972年(昭和47年)から帯広専修職業訓練校の分校に指定され、本格的に技術者の養成に力を入れた

結果、翌年には6名の職人が足寄町が独自に設けた「木材彫刻士」の称号を与えられた。この6名を中心に、女性なども含め「10人以上はいたね。」雄四郎さんはそう

振り返り、「ただ、木彫りの熊のブームが終わって、こりゃなんか考えなきゃって、僕と工藤指導員とみんなで知恵を絞って出てきたのが『どんころ熊』さ。」

 

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「『どんころ熊』も最初は色んな木で作ってみたんだけど、やっぱり皮の白と中が黒の『槐(えんじゅ)』がいいって事になってね。縁起が良い木とも言われているので『えんじゅ』で行こう!って決まったんだ。」こうして「どんころ熊」の素材は、「えんじゅ」、中でも「犬槐(いぬえんじゅ)」の木が使われた。

ただ当時でも「えんじゅ」はなかなか民間では手に入れられなかったようだが、「町でやってたからね。町有林に『えんじゅ』があったから払い下げてもらえたのさ。」雄四郎さんはそう話した。そういった巡り合わせもあり「どんころ熊」は、あの美しい「えんじゅ」の木が代名詞となった。

 

「どんころ熊」というオリジナルの製品が出来ると、その愛らしい姿は瞬く間に人気となり、雄四郎さんや仲間が創り出した木彫りの熊は大ヒット商品となった。

「弟子屈とか苫小牧とか『どんころ熊』を卸しに行ったりねぇ。問屋の人たちとかお店の方たちに本当に良くしてもらって。あと加工場で直売もしてたから、そこの

販売までしてました。」雄四郎さんは、懐かしそうにそう振り返った。その後、雄四郎さんは担当を外れ、「木彫民芸品加工場」も町の直営から第3セクターである

「株式会社足寄町振興公社」に経営が引き継がれていく。1982年(昭和57年)の事だった。

 

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「どんころ熊」を作っていた職人たちは現在そのほとんどが鬼籍に入っている。自分が当初「どんころ熊」自体ではなくデザイン化して商品を作ろうと考えたのもそれが理由だった。「技術が伝承されなかった。」からである。そんな中、一人の職人を探し当てた。「大井 信昭(おおい のぶあき)」1939年(昭和14年)生まれの85歳。

町内の共栄でご健在だった。話しを聞きに伺ったが、ご病気された影響で体調がすぐれず記憶も曖昧だった。餌取雄四郎さんが、「彼の技術は良かったよぉ。」と言う

通り、居間にはトーテムポールのような複雑な木彫りが施された見事な作品が飾られ、大井さんの木彫技術の高さを計り知る事が出来た。

 

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大井さんに「作業場を見せてもらってもいいですか?」とお願いすると「あぁ。いいよ。行って見といで。」と言ってくれたので、昔の牛舎の一角に設えた作業場に

向かうと、外で野菜の手入れをしていた奥様の美貴子(みきこ)さんが、声をかけてくれ色々と話しを伺った。

美貴子さんによると、共栄で農家を営んでいた大井家だったが、モノ作りが好きだった信昭さんは、若い頃から牛舎の地下に作業場を作り、そこに籠っては好きな木工や木彫に勤しんでいたそうだ。「じいちゃんに怒られても怒られても、いっつもやってたね。」と美貴子さんは苦笑いした。「そんなに好きならって、加工場に行き始めたんだけど、うちの山からも『えんじゅ』の木を切って持って行ってね。『うちの木がなくなるよ!』ってよく笑ってたんだよねぇ。」「もぉ。好きだから。冬なんかはビッシリ加工場行ってたね。だから、牛飼いは私一人さ。笑」美貴子さんは、さぞ大変だったはずだが、当時の苦労をそんな風にケラケラと笑い飛ばした。

そんな風に、木彫が好きで好きでたまらなかった信昭さんだったが、美貴子さんと共に農業を支えていた父が亡くなる少し前に「『やっぱり農業に専念しないとダメだな。』って、加工場辞めたんだよね。」信昭さんは、身体が不自由になった今でも作業場で「どんころ熊」を彫ろうとするという。

「ねぇ。これもやろうとしたんだろうけどねぇ。もう出来ないのに。」無造作に転がっている材料を拾い上げて美貴子さんは寂しそうにそう呟いた。

 

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「大井さんに話しを聞きにいった時に、『彫る順番があるんだ。』っておっしゃってたんですが、それが何となく自分も分かってきました。」そう話すのは、我々が企画した「足寄遺産復活プロジェクト」で、「どんころ熊」の復活を託された足寄町地域おこし協力隊の「菅原 耕」。

1990年足寄町で生まれた菅原は、中学までを足寄で過ごし、高校は札幌の学校を選んだ。更に大学は千葉の大学へ進学し、そのまま千葉で就職する。菅原にとって「木」は、建設業を営み、木質ペレット事業にも深く関わっていた父の影響で幼い頃から身近な存在だった。ホームセンターに就職してからは、会社がDIYワークショップ」に力を入れ始め、そのプロジェクトメンバーに選ばれた事で、店舗でのワークショップの企画や運営、それによるマーケティングなどを担当。もちろん自身も「DIY」を学び、自宅のテーブルなど、家具を手作りするようになっていた。そんな生活をする中で、「木を使ってのモノ作り」と大学でも専攻した「木質バイオマス」に関わる会社を起業したいという想いが芽生え、2022年3月に故郷の足寄へと戻り、4月から地域おこし協力隊として道の駅で働きながら夢の実現へと歩き出した。

 

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「足寄遺産復活プロジェクト」も彼の存在がなければ「どんころ熊」復活の話しにはならなかった。

「耕くんにやってもらおう!」何の根拠も本人の希望も聞かず、企画は走り出した。「『こうこうこういう事だから耕くん、どんころ熊作って。』と言われた時、正直

どう思った?」と恐る恐る聞くと、「あの時、丁度実家で『どんころ熊はもう作れる人がいないんだよ。』って父と話してて、『じゃあ僕がやろうかな。』って話してたんですよ。」そう言って彼は、ずり下がった黒縁のメガネを指で押し上げながらほんのちょっとドヤ顔になった。

そこから道具を購入し、菅原が「出来ました!」と持ってきた「どんころ熊」の試作品を見て、「あぁ。これなら大丈夫だ。これでこのプロジェクトは継続できる。」とそう思った。誰に教わったわけでもなく、見様見真似で、堅い「えんじゅ」に手こずりながら懸命に作った「どんころ熊」は、技術的にはまだまだだが、足寄の文化を未来に繋ぐ強い意志を持ったそんな「目」をしていた。

 

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試作第1号から試行錯誤を繰り返しながら菅原は「どんころ熊」を「どんころぐま」として商品化。道の駅のショップで販売をスタートし、ちょこちょこと売れている。「最初は乾いた木をそのまま彫っていたんですけど、堅すぎて刃が折れちゃうので、今は水に1日浸水して少し柔らかくしてから彫ってます。」と日々進化中との事。「目が一番むずかしい。」そうだ。「『どんころ熊』って作者によって、顔とか細かいところが全部違うんです。それがいいなぁって思ってて取りあえず、今はそんな昔の作品を一通り真似て彫ってみようと思ってるんです。」真面目がメガネをかけて歩いていると思えるくらいの彼だから、決して感覚だけでは彫らない。そうやって一歩一歩進んで行くのであろう。菅原は2024年3月に自身の会社「合同会社tetote(テトテ)」を設立した。

2023年には「北海道木育マイスター」の資格も取得。「tetote」では、足寄の木を使った木工製品の製作・販売やワークショップに木育教室、そして「どんころ熊」の製作・販売を主なミッションとして活動していくという。

 

 菅原が「どんころ熊」を復活させた事をどう思っているのか?餌取雄四郎さんと大井信昭さんにそれぞれ聞いてみた。雄四郎さんは、「また始めてくれたんだぁって。自分達で考えて名前を付けて『作ったぁ』って感じがあるもんだからねぇ。やっぱり『どんころ』って言ったら懐かしいんです。」と目を細め、大井さんは、「うーーん。うれしいねぇ。」とニッコリ笑みを浮かべてくれた。

 

「えんじゅ」の木のように「堅物」の彼もこれから世間という水に浸かり、歳を重ねて少しずつ柔らかくなっていくのだろう。

その頃に彼が彫る「どんころぐま」を楽しみにしている。

 

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「『どんころ熊』から『どんころぐま』へ」

 

tetote Instagram(菅原 耕)  https://www.instagram.com/sugkou7/

 ※ 合同会社tetoteでは、現在あなたのご自宅に眠っている「どんころぐま」の物品協賛を募集しています。ご自宅に眠っている「どんころぐま」がありましたら不要な場合是非「tetote」に御協賛ください。「tetote」では将来的に「どんころぐまミュージアム」を設立し、皆さまにご覧いただけるよう計画をしています。「あしょろ観光協会」事務所にお持ちいただくか、ご連絡いただければ回収に伺います。お問い合わせは、「あしょろ観光協会」0156-25-6131まで。

 ※ 参考資料  「足寄町百年史」

※ コラム内の情報は、2024年9月30日現在の情報です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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