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足寄物語~Ashoro Stories その20「北海道足寄高等学校」

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“ひがぁーしにぃ 霊峰雌阿寒岳を望み。眼下にぃ利別川の流れを受け。ここぉ十勝平野の足寄の地に燦然と輝くは我が足寄高等学校なり!”

 

これはかつての足寄高校応援団団長だけが唱えられる応援文句の冒頭の一節である。北海道足寄高等学校は足寄町の高台、里見が丘に建ち、今年7月に創立から73年を迎えた。卒業生には国会議員 鈴木宗男さん、シンガーソングライターの松山千春さん、脚本家 尾西兼一さんなど多くの著名人を輩出すると共に、現在の足寄町長、渡辺俊一など町の要人の多くも足寄高校の卒業生である。かくいう自分もその末席に名前を連ねるが、高校時代にしでかした悪行の数々を振り返ると、穴があれば入りたいとそう思っている・・・。

 

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1949年、昭和24年の7月にお隣本別高校の西足寄分校として開校した足寄高校。昭和30年に「北海道足寄高等学校」となり、3年後に道立へと移管した。開校当初は1学年3クラス編成。自分が通っていた80年代初頭は、普通科4クラス、家政科が1クラスの5クラス編成で、1学年が200名前後。

加えて定時制もあったので全校生徒は600名を超えていた。あの頃の校舎は昭和33年に完成したかなり古い建物で、冬の暖房は教室に石炭ストーブが

一つ。ストーブから遠く離れた席の生徒は寒さに凍えたものだ。入学したての1年生は、昼休みに順番に回ってくる「部活紹介」という名の下の「脅かし」(!?)や、体育館での応援団による「応援歌指導」という名の下の「脅かし」(!?)に縮みあがったものだ。一方で当時の野中ユースホステルでの「宿泊研修」、およそ35キロを歩く「強歩大会」、文化祭に体育祭の学校祭「観岳祭」、3年生を送る「予餞会」などなど勉強以外の行事は楽しいものだった。そんな青春時代を過ごした我が母校だったが、時を経て、例に漏れず過疎化・少子化の波に飲み込まれていく事になる。

 

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1991年、平成3年に新校舎が完成した足寄高校ではあったが、平成6年に1学年3クラス編成となり、13年には2クラス編成となった。しかしその10年後の平成23年、ついに新入生が30名台となり、1クラス編成となってしまう。当時の北海道教育委員会の方針は、新入学生が40名以下で1クラス編成となり、それが2年続いた場合、翌年から新入生募集を停止するというものだった。その後2年はなんとか2クラス編成を保ったのだが、平成26年再び入学者が41名に届かずに1クラス編成となり、足寄高校は存亡の危機を迎えた。

 

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町に高校がなくなるという事は、田舎町にとって大変な事件だ。絶対に避けなければならない。ここから町を挙げて足高存続のために生徒が集まる施策を練り上げ、次々と実行していった。まずは、通学費用、下宿費用、入学費用、見学旅行費用をそれぞれ補助した。更に1年生の希望者を姉妹都市カナダ・アルバータ州ウェタスキウィン市に派遣する渡航費用を全額補助。足寄高等学校振興会からは夏・冬期講習、各種検定・模擬試験費用の全額補助と部活動の遠征費などの助成。足寄町福祉課は、介護職員初任者研修受講費用の全額負担を決めた。施策はこれだけでは終わらない。希望する生徒には、給食を無償提供し、学習面では、町営の学習塾を開設。足寄高校の生徒ならば誰でも無料で通う事が出来るようにした。そんな手厚い援助の甲斐あってか、徐々に町外からの入学者も増えたと同時に、国公立の大学へ毎年5名以上、私立大学は10名以上の合格者が出るようになった。

そしてもう一つ、生徒数を増やすという目標と同時にスポーツを通じて足寄高校と町民を一体にする秘策を考える。それが野球部の強化だった。

 

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足寄町役場総務課企画財政室室長「佐々木康仁(ささきやすひと)」は、その当時教育委員会に籍を置き、足寄高校の生徒確保に頭を悩ませていた。

一方で少年野球の指導者としても活動していた彼は、教え子が中学を卒業すると、野球をやるため町外の高校へ進学する事に胸を痛めていた。というのも学校の生徒数が減っていく事と比例して足高野球部の部員の数も年々減少し、ついには他校と合同チームを作らなければならなくなる程、部員不足に陥っていたのだ。自身も足高野球部OBとしてなんとかならないものかと苦慮していた佐々木は、少年野球教室で町を訪れた「北海道日本ハム・ファイターズ」のアカデミーコーチに冗談半分、本気半分で、ファイターズから足寄高校野球部へ指導者を派遣できないだろうかと打診する。酒席の場の他愛もない話しではあったが、好感触を得た佐々木は、当時の教育長に相談してみると、「いいじゃないか!」と乗り気になってくれ、「スピード感を持って進めろ。」とお墨付きをもらった。こうしてコーチ派遣に本格的に動き出した佐々木だったが、好事魔多し。いざファイターズ球団上層部と会うと、

先方はカンカンに怒っていた。実は、佐々木が現場のアカデミーコーチと話しを進めていた事が球団の逆鱗に触れたのだ。その時の事を佐々木は、「いやぁ。大人になってもこんなに怒られるのかっていうくらい怒られましたよ。」と振り返った。こうしてけんもほろろに追い返された佐々木。

「あの晩は、まあこれでもかってくらいに飲みました。」と苦笑いしながら話してくれた。

 

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がっくりと肩を落として足寄に帰った佐々木だったが、彼の熱い想いと足寄町の情熱は、球団に伝わっていない訳ではなかった。翌年のアカデミーコーチの編成を決める段になり、佐々木がこてんぱんに怒られた場に同席していたあるフロントの方が「そう言えば足寄でコーチを派遣してほしいとか言ってたよな?」と話しを持ち出してくれたのだ。こうして一旦は諦めたコーチ派遣の話しが正式に進められる事となり、町とファイターズ球団とで覚書が交わされ、晴れて足寄町にコーチがやってくる事が決まった。この時、足寄町へのコーチ派遣に手を挙げてくれたのが、現在足寄高校野球部の監督を

務める「池田剛基(いけだごうき)」だった。

 

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1984年、札幌で生まれた池田は、小学校3年生から地元の少年野球チームで野球を始めた。きっかけは、近所でいつも遊んでいた友達がある日、

「オレ、野球やるわ。」と池田に告げた事から始まる。「??野球ってなに??」と思ったと同時に「なんか面白そうだな。」とも思った。

こうして友達が入ったチームに、本来は4年生からという決まりがあったのだが、「無理矢理入れてもらった。」 そんな風に野球を始めた池田は、アッと言う間に野球の虜となり、中学入学を控えると、「中学生になったら野球部に入って毎日野球が出来る!」とウキウキしていた。すると同じく野球をやっていたクラスメートが「中学になったら硬式のチームに入らないか?」と池田を誘ってきた。「??硬式ってなに??」と思ったと同時に・・・

さあ彼はどう思ったでしょう?そうです。「なんか面白そうだな。」やっぱりそう思ったのだった。そんな面白そうと入ったチームは実は北海道で一番名門の硬式クラブチームだった。練習に行くと1年から3年まで100名を超す選手がいて圧倒された。しかし、小学校を卒業する頃には身長が170センチ近くあったという程、体格にも恵まれていた池田は、このシニアリーグチームでも頭角を現し、3年になる頃には、いくつもの強豪校から誘いを受けるまでの選手に成長した。そんな彼が進学したのは、道立の「北海道鵡川高校」。池田は、私立有名校からの特待生の待遇を蹴って、鵡川高校を受験、入学した。理由は、2つ。まずは鵡川高校野球部の「佐藤茂富(さとうしげとみ)」監督から直々に誘われ、「プロに入れてやる。」と言われた事。もう1つは、父からの「お前、特待の話しが来てるからって調子に乗ってるんじゃないぞ。オレはそんなのは認めないからな!」と一喝された一言だった。

こうして池田は、2000年の春、中学を卒業すると札幌の実家を出て、鵡川へと旅立った。

 

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鵡川高校野球部の佐藤茂富監督は、鵡川の前には「砂川北高校」を春・夏3度甲子園に導いて一時代を築いた名将だ。鵡川高校には、池田が入学する3年前の1997年に赴任。当時は部員が9人しかいなかったが、佐藤監督の下、鵡川高校野球部は徐々に徐々に力をつけ、ついに池田が最終学年となった2002年のセンバツ大会に21世紀枠で選出され、甲子園初出場を果たした。そして監督が、「お前をプロに入れてやる。」と言った通り、池田は、2002年に

ドラフト指名され、晴れて「北海道日本ハム・ファイターズ」に入団した。

 

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その後、佐藤監督は、鵡川を2度甲子園に導き、総監督を経て、2014年に退任。そして2019年8月79歳でこの世を去った。現在、恩師の後を追うように高校野球の指導者となった池田は、高校時代の事をこう話す。「佐藤監督からは、野球の事よりも生活面に対して口酸っぱく言われました。」当時野球部寮で共に生活していた部員に監督は、「生活が人間を作るんだ!」と事あるごとに説いたという。「自分にとって、この寮での3年間の生活で学んだ事が大きかった。だから、今、高校生を指導するに当たって、佐藤先生がやって来られたことをもう一度なぞっているんです。」と池田は恩師から受けた影響をリスペクトを込めて話してくれた。

 

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2年間コーチとして指導したのち、2020年に晴れて足寄高校野球部監督に就任した池田だったが、足寄に来た当初、部員は、佐藤監督が鵡川に赴任した時よりも少ない8人だった。この年はなんとか野球経験者を口説いて助っ人してもらい試合をしていたそうだが、池田の指導や町の高校に対する支援などの甲斐あって、徐々に生徒も増え、それに伴い野球部員も増えていった。現在、1・2年生の新チームの状態でも24名の部員が在籍。その半数以上は町外からで、遠くは札幌、室蘭、網走などから入学した部員もいる。現在、十勝郡部の高校で単独でチームを組める高校は足寄しかない。室蘭からやってきた1年生の「堀合海夢(ほりあいかいむ)」選手に話しを聞くと、彼は小学生の頃に毎週札幌に通ってファイターズのアカデミースクールで野球を習っており、その時のコーチが池田監督だったそうだ。ある年、練習に行くと池田の姿がなく、「なんで池田コーチいないの?」と尋ねると、池田が足寄高校のコーチになったと聞き、「自分も足寄高校に行く!」と決心したという。ピッチャーとしてエースの座を狙う堀合選手は、「池田監督から一つでも得たい。」と監督への絶対なる信頼の念を言葉にした。

 

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池田監督に指導方針を問うと、「たくましく、魅力溢れるチーム作りをしたい。」と力強く語ってくれた。自身の高校時代の教え「生活が人間を作る。」を念頭に、生活面も含めて「今の君はたくましいか?魅力的か?」と選手たちに問い続ける。「生活面を見ていないので想像の域は出ませんが、多分、彼らは自分で起きてないし、準備もしてない。何でもかんでも親御さんにやってもらっていると思うんです。果たしてそれが『たくましい』んでしょうか?」これは子どもがいる自分にも耳の痛い言葉だった。自分自身、わかってはいても手出し、口出ししてしまう事への弊害を感じながら子育てしてきた身。監督は「彼ら」と選手に向けて発言したが、己の子育てを反省させられた一言だった。そんな池田監督だから、選手に対して事細かく言葉で指導はしていないようだ。新チームの「斉藤 新(さいとうあらた)」キャプテンは、「監督は自分達の意見を尊重してくれます。自分たちで考え、伸び伸びと野球をさせてくれた上でアドバイスをくれます。」と話し、帯広から足寄高校を選んだ理由も、「野球部の練習会に参加した時に、チームの雰囲気が良くて、伸び伸びと野球が出来そうだと思ったんです。実際、入学しても良い意味で先輩・後輩の壁がなく、学年に関わらず仲が良かった。」と

足寄高校を選んだ事を満足そうに語ってくれた。

 

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「勝つ事も大事なんですが、美しく負ける事も彼らのためになると思っています。そんな姿勢が共感を得ている気がしますね。」「一方で勝負事でもあるので、選手一人一人にどううまく発破をかけるか。競争させるか。押し引きが大切だなと思います。」そう語る池田監督に「高校生を指導していてどうですか?」と尋ねると、「選手は思うようには上手くならない。でも思いがけず勝手にきっかけを掴んで上手くなるんですよ。だから一番は『楽しい』ですよね。」そしてこうも。「一番大切な事は選手が『明日も野球がしたい!』と思える事。明日もワクワクキラキラとした気持ちで野球に取り組めることが一番です。」ときっぱりと語ってくれた。足寄高校野球部は2020年の秋季大会十勝支部予選でブロック決勝まで勝ち進み、全道大会まであと

1歩のところまで来ている。悲願の全道大会に向けて今年、町民有志による「足寄高校野球部を応援する会」も設立され、食のサポートや練習環境の

整備、遠征費用の補助などの支援を始めた。池田監督は、「足寄の町の色々な人に受け入れてもらってありがたい。そういう人たちに少しでも恩返しをしたい。」と目下の目標である全道大会出場を誓ってくれた。

 

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池田監督は、現在任期付き職員として足寄町教育委員会に籍を置く。「足寄高校の野球部監督を軸にして、スポーツを通じての町づくり、人づくりという事も考えています。」具体的には、「足寄どんぐり保育園」の子供を対象とした「あしょろキッズベースボールクラブ」や年配の方への運動指導などの活動を行っている。また足寄高校は、この冬に「弓道部」が女子団体で全国大会に出場。卓球部も新人戦で男子団体が全道大会に出場するなど、野球部以外の部も活発に活動する。更に町内の施設や様々な実習授業などにも力を入れ、魅力的な学校作りに校長先生以下、職員全員が取り組んでいる。

現在の生徒数は、169名。うち町外からの生徒は46名で、全校生徒の4分の1を超え、町の取り組みが少しづつ実りつつある。

 

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校舎も、制服もなにもかも自分の頃とは変わってしまい、あの頃から生徒数も4分の1になってしまった母校だが、町民、町職員、学校職員、父母など様々な人の情熱でしっかりと進化している。40年も前に、応援団長として叫んだあの一節をもう一度高らかに叫んでみたくなった。

 

「ここぉ十勝平野の足寄の地に 燦然と輝くは我が足寄高等学校なり!」

 

 

 

「北海道足寄高等学校」 足寄郡足寄町里見が丘5番地11   (0156) 25-2269(事務室)

 

足寄高校公式サイト http://www.ashoro.hokkaido-c.ed.jp/?page_id=21

 

 

※ コラム中の情報は2022年12月現在の情報です。

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