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足寄物語~Ashoro Stories その27 「あしょろチーズ工房」

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元々酪農が盛んで、2004年に「放牧酪農推進の町」宣言をしている足寄町には、その美味しく健康的な牛乳を使ったチーズを生産する工房が2つある。

1つは、以前にこのコラムでも取り上げた「しあわせチーズ工房」。放牧酪農で有名な「ありがとう牧場」の牛乳を職人「本間幸雄(ほんま さちお)」さんが、珠玉のチーズに仕上げる、今や世界的にも評価の高いチーズ工房だ。そんな、職人が惚れ込んだ牧場の牛乳のみを使い、チーズ愛好家たちを

唸らせるこだわりの逸品を作るのが、この「しあわせチーズ工房」だとしたら、「あしょろチーズ工房」は、足寄の様々な牧場の放牧酪農牛乳を合乳し、なるべく多くのユーザーが楽しめるよう、そしてなるべく多く届くようアイディア溢れるチーズを作っているそんな工房なのだ。

 

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足寄でのチーズ作りの歴史は、1981年まで遡る。当時の「足寄町開拓農協」が、牛乳の消費拡大のために始めた「ナチュラルチーズ加工研究所」が祖となる。この研究所には、元雪印乳業足寄工場の工場長だった「中仙道忠雄(なかせんどう ただお)」さんが迎えられ、旧茂喜牛小中学校の校舎の一部を改修した工場では、カマンベールとゴーダ、2種類のチーズが生産された。こちらで製造された「足寄カマンベールチーズ」は当時人気を博し、1983年には銀座松坂屋で販売される程だった。しかし好事魔多し。その後、工場自体が古い校舎を利用していたために不具合が多発。それが元で直営の経営を困難にさせたため、「ナチュラルチーズ加工研究所」はわずか3年半で生産中止に追い込まれた。

 

開拓農協は次の一手として、町の補助金を受けて施設を再整備し、チーズ工場を再稼働させたのだが、その経営を、北海道酪農学園大学を卒業後、西ドイツの乳製品専門学校に留学した経験を持つ「加賀谷亨(かがや とおる)」さんが設立した「アルゴイ乳業」に託した。会社の名前の「アルゴイ」というのは、加賀谷さんが留学していた学校のある街の名で、ドイツの南、オーストリアとの国境近くの美しい自然に囲まれた観光地から取られたそうだ。その「アルゴイ乳業」は、1986年からチーズ造りを開始し、従来のカマンベールに加えて、グリーンカマンベールやブルーカマンベールなどの新製品開発にも取り組み、経営も概ね順調だった。しかし、平成に入ると施設の老朽化が再び工場存続を危うくさせる。また「アルゴイ乳業」自体の技術者不足も重なり、ついに1993年に撤退。その歴史は、第3セクターである「あしょろ農産公社」に引き継がれ、足寄町開拓農協が主導したチーズ事業は直営から数えておよそ12年で幕を閉じた。

 

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「あしょろ農産公社」は、足寄町を筆頭株主に、JAあしょろや法人・個人合わせて55の株主が出資し、資本金3,000万円で、1993年1月20日に設立された。代表取締役は、当時の「富田秋雄(とみた あきお)」町長、専務には、「アルゴイ乳業」から加賀谷さんがスライドし、実質の経営に当たった。

新しい工場は、足寄湖の見える町内中矢の高台に新設され、ヨーロッパ調の建物で「高貴なチーズ」という意味の「エーデルケーゼ館」と名付けられた。「エーデルケーゼ館」は、「道の駅足寄湖」にも指定され売店なども併設して1993年7月1日に華々しく開業した。

 

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足寄のチーズの顔とも言えるカマンベールを中心に、「あしょろ農産公社」は、開業4年目には経営も黒字に転じ、1998年には、年商およそ1億3,600万円を売り上げ、町に500万円を寄付するまでに成長した。しかし、そんな日々も長くは続かなかった。その最大の要因は、高速道路。2003年に道東道の

足寄インターチェンジがオープンすると、それまで「エーデルケーゼ館」の前を通る国道241号を通っていた車は、ぱったりと姿を消した。

公社の売り上げは、インターオープンの2003年を境に下降の一途を辿り、遂に2009年には、5,000万円にも届かない売り上げに転じる。

そしてその後も数字は上向かず、2013年6月30日、チーズ事業を「JAあしょろ」に引き継ぐ形で、「あしょろ農産公社」は解散した。

 

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チーズ工場は、「JAあしょろ」に引き継がれ、2014年に「あしょろチーズ工房」として再出発。

工場長には、長く「共働学舎新得農場」でチーズの製造責任者を務めた「鈴永 寛(すずなが ひろし)」さんを招聘。鈴永さんは数々のヒット商品を産み出し、2016年にはフランスの「ギルド協会」からチーズ製造や普及に功績があった者に与えられる「ギャルド・エ・ジュレ」の称号を叙勲するなど、

多くの賞を受賞し、足寄のチーズを一躍世に知らしめ、評価を変えてみせた。しかし、そのJAもコロナ禍による影響や資材高騰の煽りを受け、2022年夏に経営から退くことを決める。「あしょろチーズ工房」の存続は風前の灯となった。

 

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「農協がチーズ工場を辞める。」そのニュースは瞬く間に町内を駆け巡り、撤退を惜しむ声があちこちで聞こえていたが、そんな時、一人の男が立ち上がった。鈴永工場長の下、チーズ作りに励んでいたスタッフの一人「佐々木一憲(ささき かずのり)」、彼が「あしょろチーズ工房」を引き継ぐと名乗りを上げたのだ。そうして佐々木は、2022年12月に、妻と共に「合同会社 あしょろチーズ工房」を設立。

代表は、妻の「佐々木佐代(ささき さよ)」が務め、製造を担当する佐々木が副代表、鈴永さんは顧問として現場からは退いた。スタッフには、JA時代から働いていた「尾西勇哉(おにし ゆうや)」さんがそのまま残り、「あしょろチーズ工房」は、3人体制で再出発する事になった。

 

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「初めは仕方がないと思っていたんですが、自分の中でどうしても勝負してみたいという想いが湧き上がってきたんですよね。」

そう話す佐々木一憲という男は、決して器用な人間ではない気がした。

饒舌とは言い難く、一言一言、言葉を選ぶように話してくれるが、かと言って無口な訳でもない。話しが進んでいくと内に秘めた情熱が言葉をどんどんと熱くしていった。

彼独特の感性は、時折話しを見失わせるので(失礼)、用心深く聞いていなければいけないが、佐々木のこの「情熱」が、「あしょろチーズ工房」の

灯を消さなかった事に、異を唱えるものはいないだろう。

 

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佐々木一憲は、1980年に函館市で生まれ、働きながら高校を出た。「働く事が好きだったんですよね。」

そう話してくれた彼は、「色々な仕事をしてみたかった。」と主に飲食業を中心に様々な職に就いた。

「あの頃は、チーズのチの字も知らなかったんですよ。」そんな彼がどうしてチーズの世界の扉を開ける事になったのだろう?

 

佐々木とチーズとの出会いは、彼がある時「カチョカヴァロ」というチーズを目にした時だった。

「『なんだこれ!』と思いましたよ。」イタリア発祥のチーズで、ひもに吊るして熟成させるため、独特の形が特徴で、「カチョカバロ」は一瞬で

佐々木を虜にした。しかも味ではなく、形に衝撃を受けたところが彼らしい。「それからというものカチョカヴァロの事が頭から離れなかったんですよね。」やはり独特の感性の持ち主だ。まるで一目惚れの初恋みたい。しかし、運命の出会いとはそんなものかもしれない。

そんな風に「カチョカヴァロ」の虜となった佐々木に、チーズの世界に入る千載一遇のチャンスが訪れた。その頃彼は、「花畑牧場」の「田中義剛」

社長が経営していたラーメン店で働いていた。ある日、そのラーメン店に義剛社長が視察に訪れると聞きつけた佐々木は、「直談判しよう!」と決意。何せその頃の彼の頭の中には、いくつもの「カチョカヴァロ」が吊るされていたものだから、このチャンスを逃す訳にはいかなかった。そしてXデー。佐々木は、義剛社長に思いの丈をぶつけた。義剛社長の返事は、「よし!じゃあお前来い!」。佐々木が25歳の時だった。

 

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「花畑牧場」に入社した佐々木は念願のチーズ作りに参加。憧れの「カチョカヴァロ」も作らせてもらった。その頃の思い出を彼はこう話してくれた。

「当時は、仲間達と一緒にもうアホみたいに沢山作ってました。作っては失敗、また作っては失敗で、心が折れそうにもなったんですけど、一方でみんなが一つになれたんです。社員だとかパートだとか関係なく、年齢や、国籍さえも超えて、みんなで一緒になって作ったんです。あの経験で僕はチーズの事が益々好きになった気がします。」初恋の「カチョカヴァロ」、「カチョ」は「チーズ」、そして「カヴァロ」は「馬」という意味を持つだけあり、

暴れ馬みたいで、簡単にはモノに出来なかったが、仲間と一緒に手綱を握る事で、佐々木は「形」から入った「カチョカヴァロ」への恋を実らせた。

 

「花畑牧場」では、憧れの「カチョカヴァロ」への初恋を成就させた佐々木だが、実は彼の人生にとって本当の大きな出会いがあった。彼が入社した後、一人の女性が「花畑牧場」に入社してくる。それが現在の「あしょろチーズ工房」代表の奥様、佐代さんだった。佐代さんは、佐々木よりも年上だが、感性が独特の佐々木には、それが功を奏しているように見える。先程、佐々木と話していると時折、話しを見失うと書いたが、その際には、佐代さんがさっと通訳をして道案内をしてくれる。職人と実務担当、会社でも阿吽の呼吸で補い合っているのだろう。

そしてもう一人、「花畑牧場」では大切な人との出会いがあった。それは彼にとってチーズ作りの師匠とも言えるチーズ職人「鈴永 寛」との出会いだ。

 

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1972年石川県に生まれた鈴永は、奇しくも佐々木と同じく25歳の時に「これからは食だ!」と考え、チーズの世界に飛び込んだ。日本全国でチーズ作りを学び、指導する立場にもなった鈴永は、「共働学舎新得農場」のチーズ製造責任者として、「花畑牧場」にチーズ作りの指導をしに来ていた。

ここで佐々木は鈴永と運命の出会いを果たす。その後、佐々木は広島のチーズ工房に声を掛けられ、「花畑牧場」を辞めて、広島で3年程働いたが、

鈴永が「あしょろチーズ工房」に招聘された事を知ると、「働かせてほしい!」と直談判した。佐代さんが帯広出身だった事も一つの要因ではあったが、鈴永の下でチーズ作りを学びたかった。こうして、佐々木は2015年、まずは足寄町の「地域おこし協力隊」として移り住み、「あしょろチーズ工房」で働き出した。

 

実際に鈴永の下で働いてみると、「鈴永さんのようなチーズ職人の下で働いた事がなかったので、それまでの自分の常識をすべて捨てなきゃいけなかった。そこがちょっと大変でしたね。」そう振り返った。2018年地域おこし協力隊の任期を終えると、工房の職員として引き続き鈴永に教えを請うた。

「あの人の教え方は、一言では語れないです。」佐々木はそう言う。

「例えば、牛乳は季節によって味が変わっていくんですが、『それに必要以上に抗うのは良くない。生産者を信じて、あとはいつも通りに作ればいい。』そんな言葉をもらったと話し、「でもここは、ブレちゃいけないよ。という部分はしっかりと叩き込まれました。」「チーズ作りの技術はもちろんですが、それ以外の多くのことを教えてもらいましたね。」尊敬する鈴永の言葉を大切にしている事がわかるが、続けて佐々木はこう言ってのけた。「今がスタートなので、鈴永さんの教えがボク自身にきちんと伝わっているのかは、これからわかるんじゃないですかね。」

 

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「バカ真面目」。鈴永は佐々木をこう評した。「なんだかわかるなぁ。」とそう思った。ただの「真面目」ではなくて、「バカ」が付いているのがミソだ。さすが師匠だ。

そんな「バカ真面目」な佐々木が、「あしょろチーズ工房」を引き継ぎたいと言い出した時、師匠はどんな風に思ったのだろう?

「いやぁびっくりもしたけど、これは面白いことになるなぁとも思いましたね。」

自身が築いた「あしょろチーズ工房」の今日を、佐々木夫妻がリスクを恐れずに引き継ぐと決心してくれた事。そして自身の「味」を引き継いでくれる事に、鈴永は驚きと感謝と期待の気持ちを表した上で、佐々木夫妻には、「量産型の工房を目指して!」とエールを送るメッセージをくれた。

鈴永は現在、東京都内でチーズなど食品を扱う会社での製造を生業としながら、「あしょろチーズ工房」では顧問を務めている。今回チーズ工房の事業承継する際に佐々木は、鈴永からこんな言葉をかけられた。

「まずは自分を信じて、思いのままにやれ!そして、どうしようもない時は、オレを呼べ。」27-20.JPG

 

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「あしょろチーズ工房」の存続は、佐々木の想いがそうさせたのは間違いないが、それを了解した奥様の佐代さんがキーパーソンだった事も間違いない。JAが断念した事業を受け継ぐなど普通では考えられない事のように思う。佐代さんは、「元々、いつかは自分で工房をやりたいって言っていたんですが、今はまだその時期じゃないよね。って話し合ってきてたんです。でも今回ばかりは、チーズの美味しさは分かっていたし、これまで色々な賞も受賞してファンもいる。ましてや『放牧酪農』の町、足寄でチーズ工房をなくすのは勿体ない。やり方次第でなんとかなるんじゃないか。って思いましたね。だから全然迷わなかった。」佐代さんは、一から工房を立ち上げるよりもチャンスが大きいと判断した。

果たして、彼女は仕事を辞め、「あしょろチーズ工房」の代表となった。

 

そして佐々木の方は、自分の工房をやりたいと思っている一方で、なにか一つ足りないものがあるんじゃないかと考えていたそうだ。「この工房は、

これまで多くの人が受け継いできた歴史がある。自分の工房もいいんですが、僕はこの歴史を繋ぐ助けになればと思うんです。」「今、自分が引き継げば、『未来』が見えるじゃないですか。」「自分が継いで、頑張って将来、町の人たちに還元したい。」「地元の高校生などにバイトしてもらって、

ゆくゆくは工房で働いてくれたらとか思ってます。」彼の中では、『未来』が次々と見えてきているのだ。

 

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「あしょろチーズ工房」のエース商品と言えば、「さく」と「ころ」。「さく」は棒状に伸ばしたストリングチーズで、それを短くカットし、ころころと転がしながら乾燥熟成させたものが、「ころ」。割くチーズだから「さく」、ころころ転がすから「ころ」、ネーミングもポップだ。

開発した鈴永に聞くと、「四国で鰹節製法を見て、チーズも常温保存が出来ないかと思い開発した。」と斬新なアイディアを教えてくれた。

「さく」と「ころ」は、コスパの良さも手伝って、大ヒット商品となっている。

 

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続いて、白カビタイプの「天」。足寄の牛乳に生クリームを合わせる事で、まるでバターのようなコクを、感じる事が出来るチーズとなった。

そして、およそ3ヶ月熟成させ、旨味や酸味が絶妙に絡まって、まるでナッツのような風味を感じる事が出来る「結」は、土地・人・牛の全ての縁が結ばれてできたという意味を込めて名付けられた。

その「結」よりも更に1か月多く4か月の熟成を経て完成するのが、深みのある「味」に仕上がった「大」。ラクレットタイプの「真」は、熱を加えて溶かす事で、ミルクの風味が際立つそう。溶かして、ボイルした野菜などにつけて食べると美味しいに決まっている。

その「真」を十勝のモール温泉で磨いて熟成させた「十勝ラクレットモールウォッシュ」は、2019年の「World Cheese Awards」でゴールドメダルを受賞した。

最後に1か月熟成の「ゴーダチーズ」は、もちもちとした食感を楽しめて、熱で溶けやすいので様々な料理に使える逸品となっている。

これら「あしょろチーズ工房」のチーズは、足寄町の「ふるさと納税」の返礼品として大人気となっている。

是非「ふるさと納税」していただいて、佐々木が丹精込めて作ったチーズたちを味わっていただきたい。

 

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佐々木に「チーズ作りの面白さは?」と問うと、しばらく宙を見つめ考えた。そしてこちらを向くと、またしばらく考え、最後にこう答えた。

「なんでしょうねぇ?」 吉本新喜劇ならばここは全員でコケる場面だ。

 

「うーん。面白いとは違うんですけど、やっぱり食べてもらって『美味しい!』って言ってもらえるのが、僕にとってはご褒美なんですよねぇ。」

「だから『美味しい!』って言ってもらえてるのに、無くなってしまうのは、勿体なかった・・・。そう勿体なかったんですよ。」

そして続けてこう話してくれた。

「僕の今の技術は、元々はひと様のもの。それが自分の番になったんで、興味がある人がいるなら、伝えていきたい。」

 

佐々木があの日、「カチョカヴァロ」と出会わなかったら、あの日「鈴永さん」と出会わなかったら、あの日「佐代さん」と出会わなかったら、

「あしょろチーズ工房」の灯は消えていたかもしれない。

 

佐々木さん。あなたのその純真な心で見ている「未来」へ真っすぐに進んでください。

あなたは、少―し変・・・いや独特な感性の人だけど、あなたのその魅力にいち早く気づき、共に歩んでくれる「佐代」さんと共に、その「未来」へと

つき進んでください。27-33

 

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「あしょろチーズ工房」の小高い丘の上から眼下を望むと「足寄湖」が秋の日差しを浴びてキラキラと輝いていた。前途は洋々だ。

 

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「あしょろチーズ工房」 足寄郡足寄町中矢673 (0156)25-7002

 

「足寄町ふるさと納税」 

https://www.town.ashoro.hokkaido.jp/citypromotion/furusato-nozei/furusato_c.html

 

 

※ 参考資料「足寄百年史」

  • コラム中の情報は、2023年10月現在の情報です。

 

 

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