現在の位置

足寄物語~Ashoro Stories その36 「足寄神社」

更新日:

923日秋晴れの空の下、足寄神社では秋季例大祭の本祭が執り行われた。前夜の宵宮祭から足寄神社の松山智博(まつやま ともひろ)宮司を筆頭に、陸別神社、浦幌神社、そして士幌神社といった近隣の町の宮司が集い、早朝から神殿にて厳かに神事が執り行われた。

自分は町内愛冠在住。幼い頃から愛冠神社の祭りごとしか参加したことがなく、このような本格的なお祭りの神事を参拝させていただいたのは初めてのことで、宮司らの神事における所作や決まり事に興味津々で参列していた。

 

36-1

 

36-2

 

右より 松山智博足寄神社4代目宮司、陸別神社、浦幌神社、士幌神社各宮司

36-3

 

子どもの頃は、「お祭り」と言えば神事よりも出店だった。あの頃は足寄も人口が1万人以上おり、今の川村写真館やウッディベルの前の道路から一番にぎやかだった

三笠通りにかけてびっしりと露店が並び、子どもたちは楽しみにしていたものだ。わたあめ、フレンチドッグ、型抜きやくじなど娯楽の少ない時代、テンションマックスのワクワク感だった。聞くところによると、昔は神社の境内で子供相撲や、弓道、剣道、柔道の試合、そして数々の文化的催事が行われていたそうだ。

それも今は昔、過疎化やコロナ禍の影響で一時そういったイベントは中止され、昨年復活したものの氏子の高齢化などで運営するのも一苦労だという。

しかし、お祭りの火を消してはいけないという氏子さん達の情熱と努力により、今年もお神輿や出店、ステージイベントなどがこぢんまりながらも催され多くの町民が神社を訪れていた。

 

36-4

 

36-5

 

36-6

 

36-7

 

36-8

 

36-9

 

足寄神社の歴史をひもとくと、まだ合併前の十勝国西足寄町と釧路国足寄村のそれぞれの神社がその礎となる。

2003年(平成15年)に足寄神社創祀百年を記念して発刊された記念誌や町百年史によると、まず西足寄神社は、1902年(明治35年)足寄太地方の守護神として宮柱が建立されたとあり、昭和10年に創立許可を得たとある。一方の足寄神社は、1905年(明治38年)現在の旭町3丁目に創建されたのがその始まりといい、昭和17年に創立許可を得たと記録されている。

そんな2つの神社が、1955年(昭和30年)、西足寄町と足寄村が町村合併した事により、2年後の1957(昭和32年)9月に「足寄神社」を「西足寄神社」に合祀する形で、現在の「足寄神社」が誕生した。そして元の足寄神社には、足寄の名誉町民であり町長も務めた「髙橋安蔵(たかはし やすぞう)」さんの髙橋家が祭っていた「稲荷神社」を遷座(せんざ)#1 し、現在に至っている。

松山宮司によると、「皆さん、別々と思っていらっしゃるんですが、『足寄神社』というのは、この西町の神社と旭町の稲荷神社をもって、『足寄神社』という事になるんです。」との事。

そうやって2つの自治体の神社が合祀した事により、例えばお祭りの出店は、春は6月の稲荷神社のお祭りの時に、秋は足寄神社の秋季祭の時にと公平となるよう配慮されるなど、独特の慣習が根付いている。

 

36-10

 

36-11

 

36-12

 

36-13

 

足寄神社の歴代の神官(戦前)・神職(戦後)は、これまで4人が歴任している。

まず西足寄神社時代に赴任した初代の宮司さんが、「狩野喜一郎(かのう きいちろう)」さん。戦前は宮司ではなく、「社掌(しゃしょう)」と呼ばれていた。

西足寄神社が公認神社となった2年後の、1937年(昭和12年)8月に赴任され、1944年の3月に亡くなられるまで西足寄神社を御護りした。

そして2代目が、小樽の住吉神社から赴任した「松山嘉幸(まつやま よしゆき)」さん。現在の宮司の祖父に当たる方だ。松山家は元々新潟の出で、そこから小樽に

移り住んだそうで、親類に「神道(しんとう)」の方がいた事から、嘉幸さんは神職を目指し小樽で修行した。そして30歳の時に、狩野宮司の後継として西足寄神社の宮司に就任。それから足寄神社との合祀などを経て、1974年(昭和49年)60歳という若さでこの世を去るまで、足寄神社の「神主さん」として町民に親しまれた。

「オヤジは、私が大学を出て戻ってから何年もしないで亡くなってしまったんですよねぇ。」そうに話してくれたのは足寄神社3代目の宮司で、嘉幸さんの息子である「松山憲市(まつやま けんいち)」さん。現在は「名誉宮司」として4代目を支えている。1947年(昭和22年)に足寄で生まれ、小中高と足寄で育った憲市さんは、

将来神職に就くべく國學院大學神道文化学部へ進学し資格を取得。卒業後はすぐに足寄に戻った。

「本当はどこかの神社に務めて修行してから戻りたかったんですけど、オヤジが『すぐに戻って来い!』ってねぇ。」憲市さんはそう言って笑ったが、先程も言った

通り父は憲市さんが戻って数年の内に亡くなられ、27歳で宮司を継承する事となった。

なので自分が子どもの頃は、神主さんといえば憲市さんだった。剣道をやっていたため、毎年1月の鏡開きには足寄剣連の面々が一堂に会し、憲市さんの祝詞の下、

道場の神棚に一年の安全を祈願し、初稽古をしたものだ。

 

松山嘉幸足寄神社2代目宮司

36-14

松山憲市足寄神社3代目宮司

36-15

 

36-16

 

36-17

 

松山嘉幸さん、憲市さんと継承された足寄神社宮司。現在4代目を継いでいる智博さんは、1975年(昭和50年)生まれ、子どもの頃はサッカー部に所属するなどスポーツが好きな少年だったという。「友達とサッカーや野球して遊ぶのが大好きでしたね。それと自然に囲まれている事が当たり前でした。親の山菜採りについて行ったり、雌阿寒岳に登ったり、里見が丘公園でバーベキューをしたりなどたくさんの思い出があります。」宮司は足寄での少年時代をそう振り返った。

足寄高校卒業後は、伊勢神宮の「神宮研修所」にて2年間、みっちり神職の勉強をした。内容は、「古事記」「日本書紀」の古典や、「祭式」「神道神学」に「祝詞作文」そしてなんと「英語」も勉強したそうだ。そして神宮研修所を卒業すると、足寄に戻る前に鬼の石像「がまんさま」で知られる、横浜の「菊名(きくな)神社」に

奉職。およそ5年ほどを横浜で過ごし足寄に帰郷した。

 

36-18

 

36-19

 

36-20

 

さて足寄町内には、この「足寄神社・稲荷神社」という北海道神社庁に属する神社のほかに、各集落にも地域住民の心のよりどころとしての神社が点在する。

2007年(平成19年)に発刊された「足寄百年史」に掲載されている現存する神社は28に及ぶ。自分の住む愛冠にも「愛冠神社」があり春と秋にはお祭りを行い、松山宮司に宵宮、本祭と祝詞をあげていただいている。愛冠神社の御神体は岐阜から入植した「餌取市之助(えとり いちのすけ)」が、地元の「白山神社」から授かって

持ってきたものとされており、白山信仰は神仏一体の信仰であるため、この時に市之助が授かった、すなわち愛冠神社の御神体は木彫りの仏像である。

松山宮司によると、「そんな風に足寄町の各神社は入植してきた方々の地元から持ち込んだご神体が多いんですが、愛冠神社の御神体はその中でも別格で、大変貴重なご神体なんです。」とのこと。

それが理由かは分からないが、愛冠神社では現在もかなり本格的な祭事が行われる。祭壇には、「尾頭付き」。基本「塩マス」で、お供えする向きなども決まっている。他には「御神酒」「御洗米」「御鏡餅」「御煮干し」「御菓子」「御野菜」「御果実」そして「御塩・御水」がお供えされ、春祭りにはお札を作り、ご祈祷していただいた後に氏子の元に配られる。

余談だが愛冠の氏子が直面している問題がある。それは「御神酒」。愛冠神社には御神酒をお供えする時に使う一升徳利があり、これにお酒を移して宵宮で一升、本祭で一升、都合二升をお供えする。つまりその二升は氏子が消費しなければいけないということになる。おまけに秋は「馬頭観音」も加わるため、さらに一升増える。

ところが祭りに参列する氏子は高齢化のため減りに減り、今では毎回5人程で春に2升、秋は3升をやっつける。もはや修行の域なのである・・・。

 

さて冗談はともかく、自分が「集落支援員」を拝命してから、中足寄や螺湾のお祭りにも顔を出させていただいている。それぞれの神社には集落の方々が集いご馳走を持ち寄り一杯やりながら近況を語り合う。地元とはいえ、集まる機会も減っている昨今、お祭りは大切な地元の文化だと感じた。

また神社には桜が植えられていることが多く、春に各地の神社を巡り桜の写真などを撮ったりしたが、どこもきれいに整備されそれぞれの神社が大切にされていることが良く分かった。

 

愛冠神社

36-21

 

36-22

 

36-23

中足寄神社

36-24

 

36-25

螺湾神社

36-26

上足寄神社

36-27

稲牛神社

36-28

芽登神社

36-29

大誉地神社

36-30

上利別神社

36-31

 

足寄神社松山宮司の一日はその日によって時間はまちまちだが、午前中のご祈祷に始まり、夕方 一日の終わりのご祈祷と毎日二度本殿に赴き、御神体と対面する。

毎日本殿へと続く石段を上り下りするのは大変なご苦労だが欠かす事の出来ない大切な儀式だ。

さてその石段だが、途中に建立された石碑を見て初めて知ったのだが、厄年の数が石段の段数となっている。石段は大きく4段階に分かれており、下の二段が女性の

厄年にちなみ33段。上の二段が男性の厄年の42で「めおと階段」と名付けられている。石段を登る機会があればぜひ数えてみてほしい。

 

36-32

 

36-33

 

さて神社仏閣を参拝した証しとなる「御朱印」がブームとなって久しいが、足寄神社も独自の御朱印を発行し参拝者を喜ばせている。

現在の御朱印は2020年に4代目宮司が札幌大学で地方自治体の問題を研究する教授に相談し、当時札大2年生だった「清野真衣」さんがデザインを手掛けたものだ。

清野さんは「足寄をかわいらしく」をテーマに、鳥居とラワンブキに人やクマの足型をあしらった2種類のデザインを考案。松山宮司が毛筆で書いた「足寄神社」の上下に清野さんデザインのゴム印が押され、最後に真ん中に神社印をあしらって完成となる。「女性らしい視点でこの町の魅力が詰まった御朱印にしていただきました。」と松山宮司。「お陰様で御朱印を求めて訪れる参拝者が増えています。」とのことだ。

 

過疎の波にさらされ、氏子の高齢化が進み、祭事の存続も危惧される中、時代時代に合わせた「町の神社」の在り方を模索する松山宮司だが、その根本には「町民の心のよりどころになれば」という祖父、父と受け継がれてきた想いがある。足寄神社が創祀され120年を超える時を経た今もまた、その想いは決して変わることはない。

 

36-34

 

36-35

 

「足寄神社」  足寄町里見が丘12番地2  (0156) 25-2279

 

足寄神社年間祭事

1月 1日  歳旦祭            

     15日  どんど焼き

   26日  厄祓祭

2月 3日  厄祓祭

   11日  建国祭

   17日  祈年祭

3月 2日  初午祭(稲荷神社)

    3日  人形感謝祭

4月14日  春季宵祭

   15日  春季本祭

6月14日  稲荷神社宵祭

   15日  稲荷神社本祭

   30日  大祓式

8月15日  中元祭

9月22日  秋季宵祭

   23日  秋季本祭

10月17日  神嘗祭当日祭

11月 3日  明治祭

   15日  七五三祭

   23日  新穀勤労感謝祭(新嘗祭)

12月31日  大祓式

        開運祭(稲荷神社)

 

#1 遷座=神体、仏像などをよそへ移すこと。

 ※ コラム内の情報は、20259月現在の情報です。

 

 

足寄物語

より良いホームページにするためにアンケートにご協力してください。

質問:お求めの情報が十分掲載されていましたか?

質問:ページの構成や内容、表現は分かりやすかったでしょうか?

不足していた情報や、調べたかったことなど、他にご感想があればご意見・お問い合わせフォームからお送りください。