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足寄物語~Ashoro Stories その37 「両国食堂」

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その昔、現在の足寄の町を二分するように流れる「利別川(としべつがわ)」を境に、町の東側は「釧路国」、西側は「十勝国」に属していた。

そしてその2つの国を繋ぐため1912年(明治45年)に架けられたのが、「両国橋(りょうごくばし)」。足寄町民にはおなじみの橋である。

毎年お盆の815日に、この橋のたもとから打ち上げられる花火大会は「両国花火大会」と銘打たれ、多くの人々が真夏の夜に咲く大輪の花を楽しんでいる。

そしてもう一つ足寄で「両国」の名を冠するのが、今年創業75周年となる「両国食堂」、手打ちそばの名店だ。

現在、足寄の「両国食堂」を営むのは、2代目の「廣田 晃(ひろた あきら)」、妻の「サダ子」、そしてお二人の長男で3代目の「廣田 茂(ひろた しげる)」。

一家で「両国」の暖簾を守っている。

 

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「両国食堂」を創業したのは、晃さんの母「ノブ」さんだった。1951年(昭和26年)のことだ。廣田家は元々ノブさんのご主人が営む鍛冶屋でその生計を賄っていた。この鍛冶屋は自分が学生時代には「廣田鉄工場」として今の両国食堂の隣に工場があったことを覚えている。

 

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「だけどねぇ。鍛冶屋っていうのは、日銭が入ってこないしょ? うちは兄弟が10人いたんだけど、母が『これからは高校くらい出ないとダメな時代だから。』って、

子どもの教育費を稼ぐために食堂を始めたんですよ。」そう話してくれたのは、ノブさんの一人娘の「斉藤 澄子(さいとう すみこ)」さん。

10人兄弟では丁度真ん中で、7男である晃さんの7歳上のお姉さんだ。

先ほど、足寄の「両国食堂」と書いたが、実は釧路管内弟子屈町にも「両国食堂」があり、こちらを経営しているのが、澄子さん。今年米寿を迎えるという澄子さんはお店のカウンター前にどっしりと構えて、お客と厨房に采配を振る。その姿は矍鑠(かくしゃく)そのもの。調理はもっぱら次女の「美知代(みちよ)」さんが担当だ。弟子屈の「両国食堂」の名物は、元々賄い料理だったという「そばラーメン」。かしわそばの麺がそばではなくラーメンという斬新なアイディアで、自分もご相伴にあずかったがびっくりの美味しさだった。今回はそんな弟子屈の「両国」にて澄子さんと美知代さんに、ノブさんが創った「両国食堂」の歴史を伺った。

 

弟子屈町の「両国食堂」

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左 斉藤澄子さん 右 美知代さん

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弟子屈「両国食堂」名物の「そばラーメン」

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「うちの母は厳しい人でねぇ。私は一人娘だからもう小学生の頃から家事全般仕込まれたんです。イヤでイヤで反発もしてましたけどね。」と澄子さん。

子どもたちの学費を稼ぐために開いた両国食堂は、基本ノブさん一人で切り盛りし、「そばが一杯50円の時代でした。それで昼間だけでなく夜は女の子使って飲み屋さんみたいな事もやってたんだよね。」母の描いた通りに本別高校に進学し無事卒業した澄子さんは、「すぐに店に入れられました。笑」

母に全てを仕込まれた澄子さんは、一時期、当時の足寄農協の建物の1階でも両国食堂をやっていたことがあったそう。今の「ブランクハードサイダーワークス」の

建物だ。そんな澄子さんが結婚し足寄を離れて数年経った頃、ご主人の仕事の関係で弟子屈に移り住むことになる。1965年(昭和40年)、美知代さんが産まれるほんの少し前の事だった。「そうしたら、ばーちゃんはじーちゃんと仲悪かったもんだから離れたかったんだろうね。こりゃいいやって、弟子屈にかまど持って越してきちゃったのさ。笑」そう言って孫の美知代さんはケラケラと笑った。寄の両国食堂を閉め弟子屈に越したノブさんは、早速新天地でも「両国食堂」をオープンさせた。

 

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右から創業者ノブさん、美知代さん、澄子さん

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弟子屈では当初飲み屋街に店を出したノブさんだったが、呑兵衛たちのあしらいに嫌気が差し、すぐに本通りに店を構えた。その両国食堂には娘の澄子さんや、ノブさんの3男のお嫁さんミツエさんらが手伝いに入り、その後ミツエさんは弟子屈に「そば処 えちご食堂」を開いている。

さて、そんな風にして弟子屈に根を生やしたノブさんの下へ、次々と足寄に残した息子たちが集結する。まず弟子屈にやってきたのが、その後終生ノブさんと暮らす事になる8男の「宗行(むねゆき)」さん。そしてそのあとを追うようにやってきたのが、7男、現在の足寄両国の当主、晃さんだった。

二人はノブさんの指導の下、手打ちそばのノウハウをみっちりと叩き込まれた。

そして晃さんがサダ子さんと結婚したこともあり、1973年(昭和48年)ノブさんは晃さんに暖簾を分け弟子屈には2軒の両国食堂が並び、「えちご食堂」を入れると

都合3軒が廣田家系となり、ノブさんのそばは弟子屈で隆盛を誇った。今風に言えば「家系そば」になるのだろうか!?

美知代さんは当時を振り返り「私も小学生であきちゃんの店に手伝いに行かされたのさ。」と笑い。足寄両国の3代目、茂さんは「僕も4年生くらいまで弟子屈でした。ホントにちっちゃい店で古くって、だけどそれが貧乏だとは思ってなかった。あの当時はそういうもんかなぁって。」そう言って、弟子屈時代を懐かしんだ。

 

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弟子屈で両国食堂を成功させたノブさんは、程なくして澄子さんに店を任せ宗行さんと共に創業の地である足寄へ戻り、再び両国食堂の暖簾を掲げた。

ところが、いくらもしないうちに宗行さんが、「釧路に出たい。」と言い出しノブさんと共に釧路へ。治水町(じすいちょう)に両国食堂を出した。

そしてこの時に足寄の両国食堂を引き継いだのが、晃さん一家だった。美知代さんは、「店は建てたばかりだし、弟子屈にはもう一軒両国があるしってことで、あきちゃんが戻ったんだよね。」と話してくれた。これでようやく、現在の足寄両国食堂に繋がったという訳だ。

ちなみに宗行さんはその後、札幌の平岸でも両国食堂を出したが最後は弟子屈に戻り、地元の文化センターにあるレストランで働いた。独身だったこともあり母が亡くなるまで一緒に暮らしたという。そんな宗行さんも若くしてノブさんと同じく弟子屈でその生涯を終えた。

 

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足寄両国食堂は毎日昼時になると駐車場は満杯となり、ノブさんから受け継がれた手打ちそばに舌鼓を打つ客で満席となる。

そばを打つのは2代目の晃さんから手ほどきを受けた3代目の茂さんだ。毎朝8時頃からそばを打つが、「1回で打てるのが20人前なんですよね。」と話してくれた。

両国のそばはそば粉の産地として名高いそばの町「幌加内」のそば粉を使い、細かい配合は違うもののそば粉につなぎの小麦粉を混ぜたいわゆる「2・8そば」というやつだ。晃さんが病に倒れたことがありそこから茂さんがそば打ちを担当することになったそうで、「だからまだ10年も経ってないんですよ。」とのこと。

ノブさんから伝わるそばは少し太めでしっかりとコシが感じられ食べ応えがある。個人的には温かいそばに合うと思っている。自分の定番は、温かい「山菜そば」。

そしてこれに小さい丼ものが付くセットにするのだが、やっぱり十勝っ子は「豚丼」をチョイスする。両国の豚丼は”かみこみ豚”というブランド豚を使い、ミニ丼にも

関わらず2枚のお肉がドーンと鎮座する。そしてそのお肉の柔らかいこと。甘辛いタレを纏ったかみこみ豚を口に放りこみ ”かみこみかみこみ” そして間髪入れずに

そばをずぅずぅずうーっとすすれば、もう言わずもがなだ。この両国の豚丼は足寄町のふるさと納税の返礼品にもなっている。

 

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「そばメニューは昔から変わらないんですよね。セットは昔は裏メニューだったんですよ。」と茂さん。「お客さんがそばに小さい豚丼つけてとか天丼つけてとか注文されて、それを正式にメニューにしたら急に忙しくなっちゃって。」現在セットは各種そばに「豚丼」「天丼」そして「カレー丼」が選べる人気のメニューとなっている。

そして「せいろ」もの。冷たいそばを温かいつゆでいただくせいろだが、「かしわせいろ」に「豚せいろ」、そしてその「豚せいろ」に辛味を加えた「旨辛豚せいろ」は比較的若い世代に人気だ。ちなみに若くはないが自分も大好きである。

さらにごはんものでは天丼と豚丼が一度に楽しめる「天ぶ丼」なるオリジナリティ溢れる逸品もある。

そんなメニューたちは茂さんのアイディアで加えられたそうだが、「いやぁ。コロナの時ですよねぇ。なんか新しいものしないとって。大変だったですから。」

茂さんは当時を思い出すように一瞬顔を曇らせた。しかしそんな逆境を乗り越えるために知恵を絞ったことで、今の両国の看板メニューが産まれたのだ。

「旨辛豚せいろ」を食べるときはそんな当時の苦労に思いを馳せいただく事にしよう。

 

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足寄両国食堂3代目の茂さんは1971年(昭和46年)男ばかり3兄弟の長男として生まれた。

小学校4年生の時に両親とともに弟子屈から足寄に戻った茂さん。少年時代は、「釣りが好きで、よく下愛冠の橋のところで釣りしてましたねぇ。じーちゃんの釣り

道具借りて、まあ”うぐい”くらいしか釣れないんですけど楽しかったですよ。」そんな風に子供時代を振り返った。

「野球も好きで少年野球から中学校まで野球やって高校は帰宅部でした。」「卒業後は?」と聞くと、「東京の調理師専門学校に行ったんです。」そう返事が返ってきた。

さすが長男。家業を継ぐために調理師を目指したのだ。しかしその真相は。「いやいや東京に行きたかったんですよ笑」

そんな風に意気揚々と乗り込んだ憧れの東京は田舎の少年を圧倒した。「いやぁ、スゴイ!なぁって。」「でも、学校も1年だけだったから、遊ぶのもアッと言う間で。それから地獄の板前修業が始まったから。」そう調理師学校を卒業した茂さんは板前になるべく割烹料理の店に就職。「あの時代はキツかったですからねぇ。一番下を

3年やりました。一応、毎年のように下は入ってはくるんですけど、すぐに辞めちゃうからいつも下っ端で。3年間賄い作りやらされました。まあだから可愛いがられもしたし仕事も覚えたんですけど。」茂さんはそう話し若い修行時代の悲喜こもごもに思いを馳せた。

 

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同じ系列の日本料理店をいくつか回りながら修業を積んだ茂さんは、栃木県宇都宮市のホテルの店を最後20代後半足寄へ戻った。板前を目指してから10年の月日が経っていた。帰郷後は家業のほかにも商工会青年部の活動などにも積極的に参加し、気が付けばまた10年が過ぎていた。

「淡々と流れた。そんな感じですねぇ。もうちょっと真剣にやっておけば良かったなって笑」茂さんはそんな風にふるさとに戻ってからの日々を茶化したが、その実、商工会青年部の活動や青年部卒業後も町の特産を作ろうと「鹿肉コロッケ」開発に精を出し、道の駅エリアのチャレンジショップでの販売や、「小っちゃい喫茶店も

やりましたね。」「足寄のためにって色々やったかな。」と奔走していた。そしてその奔走は現在も続き、足寄町商工会理事、足寄町商工会商業部会部会長、情報化推進委員会委員長、協同組合足寄町スタンプ会代表理事などなど商工会の役職を中心に要職を歴任し、足寄の商工業をけん引する存在となっている。

 

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弟子屈の美知代さんがこう話してくれた。「足寄の両国は、あきちゃんだからここまで出来たんだと思う。面倒くさいところもあるけど社交的だし、茂もそうだしね。」そして続けて、「弟子屈の両国は私の代でおしまい。あと10年くらいは頑張るつもりだけど事業承継とかはするつもりはないんです。それはね足寄に両国があるから。

"ばあば"が創った両国だから、やっぱり他人に任せる気にはならないのよ。」そう話してくれた。

 

その昔、十勝国と釧路国を繋いだ「両国橋」。その橋の名から取られた「両国食堂」はくしくも今、十勝の足寄と釧路の弟子屈で共に緑の暖簾を掲げ、「両国橋」は二つの「両国食堂」を繋ぐ橋となった。2月の頭、両国橋の上から利別川をのぞくと、まだ春遠く寒風が我が身に纏わりつくように吹いた。

足寄の2月はまだ凍てつく2月だ。こんな日は両国のあったかいそばで温まるのが一番いい。

 

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「両国食堂」  足寄町北1条3―8  (0156) 25-3755 定休日 月曜日14時から閉店

 

インスタグラム https://www.instagram.com/ryogoku_shokudo/?hl=ja

 

足寄町ふるさと納税 https://www.town.ashoro.hokkaido.jp/citypromotion/furusato-nozei/furusato_c.html

 

 

「両国食堂」(弟子屈) 弟子屈町中央2丁目9-6  (015) 482-3064 定休日 月曜日

 

 

参考資料

続・北海道おいしいそばの店(北海道新聞社)

続 北のそば屋さん(北海道新聞社)

 

 

※ コラム内の情報は、20262月現在の情報です。

 

 

 

 

 

 

 

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